下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年〈昭和11年〉5月29日 - )は、日本の作家・評論家・エッセイスト。元NHKアナウンサー、JKA初代会長。 栃木県宇都宮市出身。下重家は江戸時代、各地の御典医に多かった姓で[1]、暁子の下重家は石見国浜田藩の御典医を代々勤めた[1]。映画「戦場のメリークリスマス」の登場人物のモデルになった森勝衛
略歴・人物
教師の影響で、進学校の大阪府立大手前高等学校に進学。国語など文科系科目は得意なため、苦労したことはなく[5]早稲田大学教育学部国語国文学科に進学した。芥川賞作家の黒田夏子は早大教育学部の同級生で同人誌仲間。
早大卒業後の1959年に、アナウンサーとしてNHKに入局。名古屋放送局や東京の放送センターに勤務した。野際陽子はNHKアナウンサー時代の1年先輩で、名古屋放送局での同僚でもあった。
NHK退職後に女優へ転身した野際に続いて、1968年にフリーアナウンサーへ転身。『長谷川肇モーニングショー』(NETテレビ)等のキャスターを経て、文筆活動に入る[6]。作家・評論活動だけでなく、講演も行っている。
2005年(平成17年)に、最後の日本自転車振興会(第12代)会長に就任。後にガールズケイリンと称して復活することになる女子競輪の再開を強く要望[7]し、2008年にエキシビションながらも女子のケイリンレース実施を実現した後、2010年9月30日に女子競輪を2012年7月に復活させることを決定した[8]。また、2008年に財団法人JKAの初代会長に就任。2011年3月31日まで務めた。
エピソード
「下重暁子」は旧姓。結婚した時改姓したが、旧姓のままでいたかった、としている。選択的夫婦別姓にも賛同し、死ぬ前には事実婚に戻し、「下重暁子」として死にたい、としている。「夫婦同姓は明治期からの制度であり、伝統でもなんでもない。」「通称利用で現制度の不利益が緩和されるなどということはない。」としている[9]。
2015年に幻冬舎から『家族という病』を出版し、50万部のベストセラーとなった。同書の中で下重は「親や家族の期待は子供をスポイルしている」「配偶者は他人」などと家族の価値を否定し、自立した個人の重要性を強調した。これに対して金美齢は「歪んだ家族論」「傲岸不遜と言わずして、なんと言おう」と下重を批判し、2016年に反論本である『家族という名のクスリ』を出版した[10]。
1994年に『純愛 - エセルと陸奥広吉』を書いた時に、本を書いたお礼にと、二人の息子である陸奥イアン陽之助から鹿鳴館の華と称された陸奥亮子が身につけていたダイヤのネックレスと、陸奥宗光のパーティーで外国人に用いられた銀製のスプーンやナイフをもらっている[11]。
長野県軽井沢町に別荘があり、夏に限らずよく滞在しているという[12]。この建物の設計は吉村順三で、音楽教育家エロイーズ・カニングハムの元別荘である[12]。
役職
財団法人JKA初代会長(特殊法人日本自転車振興会第12代会長として2005年に就任し2011年まで在職)
日本旅行作家協会第3代会長 (第2代会長・兼高かおるの後を継いで2011年3月に就任し現職)
著書
単著body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}
『もうひとりのあなたに』大和書房 銀河選書 1967
『なぜ結婚にあこがれるか 自発的適齢期のすすめ』三笠書房 1973
『エチケット手帖 あなた自身のために』(ひかりのくに、1974年)
『聞き上手・話し上手 人に好かれる秘訣』(大和出版、1975年)
『小さな旅 漂う日々に』(サイマル出版会、1976年)
『ゆれる24歳 私に語ったOLたち』サイマル出版会、1977年。NDLJP:12143465