下?郡
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下?郡(かひ-ぐん)は、中国にかつて存在した後漢から隋代にかけて、現在の江蘇省北部に設置された。
概要

72年(後漢の永平15年)、劉衍が下?王となり、東海郡下?県に下?国が置かれた[1]79年建初4年)、臨淮郡は下?国に編入された[2]。下?国は徐州に属し、治所は下?県に置かれた。後漢の下?国は下?・?陵下相淮陰淮浦?台高山・潘旌・淮陵・取慮東城曲陽司吾良成夏丘の17県を管轄した[3]184年中平元年)、下?王劉意が死去したが、後嗣となる子がなかったため、下?国は廃止されて、下?郡と改められた[4]

222年三国黄初3年)、曹宇が下?王となり、下?郡は下?国と改められた。232年太和6年)、曹宇が燕王に改封されると、下?国は下?郡と改められた[5]

265年西晋泰始元年)、司馬晃が下?王となり、下?郡は下?国と改められた。西晋の下?国は下?・・良城・?陵・夏丘・取慮・僮の7県を管轄した[6]

525年北魏孝昌元年)、下?郡は東徐州に転属した。下?郡は下?・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した[7]

533年中大通5年)、南朝梁が下?郡を奪った。下?郡は武州に転属した。

550年東魏武定8年)、東魏が下?郡を領有した。下?郡は再び東徐州に転属した。

北周のとき、下?郡は?州に転属した。

581年開皇元年)、?州が廃止されて、下?郡は泗州に転属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下?郡は廃止されて、泗州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下?郡と改称された。下?郡は宿豫・夏丘・徐城淮陽・下?・良城?の7県を管轄した[8]

621年武徳4年)、により下?郡は泗州と改められ、下?郡の呼称は姿を消した[9]
僑置下?郡
南下?郡

東晋明帝のとき、南下?郡が僑置された。南下?郡は下?・北凌・僮の3県を管轄した。460年大明4年)、南彭城郡に併合された[10]
北下?郡

南朝宋のとき、下?郡の本土を失陥すると、北下?郡が僑置された。北下?郡は僮・下?・寧城の3県を管轄した[10]
脚注^後漢書』顕宗紀
^ 『後漢書』孝明八王列伝
^ 『後漢書』郡国志三
^ 『後漢書』孝霊帝紀
^三国志』魏書武文世王公伝
^晋書』地理志下
^魏書』地形志二中
^隋書』地理志下
^旧唐書』地理志一
^ a b宋書』州郡志一










漢朝の行政区分

 前漢

司隷校尉部

京兆尹渭南郡


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