下?郡
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。下?郡(かひ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から隋代にかけて、現在の江蘇省北部に設置された。
概要72年(後漢の永平15年)、劉衍が下?王となり、東海郡下?県に下?国が置かれた[1]。79年(建初4年)、臨淮郡は下?国に編入された[2]。下?国は徐州に属し、治所は下?県に置かれた。後漢の下?国は下?・徐・僮・?陵・下相・淮陰・淮浦・?台・高山・潘旌
・淮陵・取慮・東城・曲陽・司吾・良成・夏丘の17県を管轄した[3]。184年(中平元年)、下?王劉意が死去したが、後嗣となる子がなかったため、下?国は廃止されて、下?郡と改められた[4]。
222年(三国の魏の黄初3年)、曹宇が下?王となり、下?郡は下?国と改められた。232年(太和6年)、曹宇が燕王に改封されると、下?国は下?郡と改められた[5]。
265年(西晋の泰始元年)、司馬晃が下?王となり、下?郡は下?国と改められた。西晋の下?国は下?・凌・良城・?陵・夏丘・取慮・僮の7県を管轄した[6]。
525年(北魏の孝昌元年)、下?郡は東徐州に転属した。下?郡は下?・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した[7]。
533年(中大通5年)、南朝梁が下?郡を奪った。下?郡は武州に転属した。
550年(東魏の武定8年)、東魏が下?郡を領有した。下?郡は再び東徐州に転属した。
北周のとき、下?郡は?州に転属した。
581年(開皇元年)、?州が廃止されて、下?郡は泗州に転属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下?郡は廃止されて、泗州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下?郡と改称された。下?郡は宿豫・夏丘・徐城・淮陽・下?・良城・?の7県を管轄した[8]。
621年(武徳4年)、唐により下?郡は泗州と改められ、下?郡の呼称は姿を消した[9]。
僑置下?郡
南下?郡東晋の明帝のとき、南下?郡が僑置された。南下?郡は下?・北凌・僮の3県を管轄した。460年(大明4年)、南彭城郡に併合された[10]。
北下?郡南朝宋のとき、下?郡の本土を失陥すると、北下?郡が僑置された。北下?郡は僮・下?・寧城の3県を管轄した[10]。
脚注^ 『後漢書』顕宗紀
^ 『後漢書』孝明八王列伝
^ 『後漢書』郡国志三
^ 『後漢書』孝霊帝紀
^ 『三国志』魏書武文世王公伝
^ 『晋書』地理志下
^ 『魏書』地形志二中
^ 『隋書』地理志下
^ 『旧唐書』地理志一
^ a b 『宋書』州郡志一
表
話
編
歴
漢朝の行政区分
前漢
司隷校尉部
京兆尹(渭南郡)
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