下総国
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下総国

■-下総国
■-東海道
別称総州(そうしゅう)[注釈 1]
相当領域千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺、東京都東辺(隅田川東岸)
諸元
国力大国
距離遠国
数11郡91郷
国内主要施設
下総国府千葉県市川市
下総国分寺千葉県市川市(下総国分寺跡
下総国分尼寺千葉県市川市(下総国分尼寺跡
一宮香取神宮(千葉県香取市
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下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属し、現在の千葉県北部と茨城県南西部が主たる領域にあたる。
概要

現在の千葉県北部と茨城県南西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国下野国、西で上野国武蔵国、南で上総国江戸内海を挟んで相模国と接する。

古語拾遺』によると、よきの生いたる土地というところより?国(ふさのくに・総国)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが「しもふさ」「しもうさ」に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている[1]。上総国と下総国の場合、西国からの移住開拓黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった[2]。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある[3]
沿革

律令制以前には印波千葉下海上国造が置かれていた。律令制国家建設にともなって東海道に属する一国となり、葛飾千葉印旛匝瑳相馬猿島結城岡田海上香取埴生の11の)をもって令制国としての下総国とした(のち豊田郡が加わる)。元々東海道は海つ道(海路)であり上総国から下総国へ入る経路だったが、宝亀2年(771年)に武蔵国が東海道に移管され、相模国から武蔵国を通って下総国へ入る経路へ変更された。国府は市川市国府台付近に置かれ、国級は大国に位置づけられた。

古代末期から中世にかけて千葉氏が台頭し、源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に尽力した。鎌倉室町時代と守護の地位を確保し、中世には千葉氏の歴代当主が下総の守護権介を兼ねるようになり、特別な敬意を込めて千葉介(ちばのすけ、「千葉郡を領する(権)介」)と呼称された。一方、最北部の結城郡を中心とした下野国との境界付近に根拠を持つ小山氏の庶流・結城氏も鎌倉幕府の創設に貢献して独自の勢力を築き、室町時代の一時期には下野国の守護に任じられている。

15世紀前半の永享の乱やその他の関東の動きに結城氏や千葉氏も巻き込まれる。結城氏は結城合戦で室町幕府と戦って一時滅亡に追い込まれ、千葉氏も享徳の乱における内紛で宗家は滅亡、その結果千葉氏は武蔵国に逃れた一流と千葉から佐倉に拠点を移した一流の2つに分裂することになり次第に衰えた。かわって下総生実城に寄った小弓御所足利義明が勢威をふるい小田原北条氏と対抗した。1538年天文7年)と1564年永禄7年)の国府台合戦においてはじめに足利義明が敗死、また義明の後に台頭した安房国里見氏が敗北したことにより、下総国内は小田原の北条氏の強い影響を受けることになり、佐倉の千葉氏やその家臣で主家をしのぐといわれた原氏、また高城氏らが従属下に置かれるようになった。1590年天正18年)、豊臣秀吉の来攻に北条氏は屈服したが千葉氏らはこれと運命をともにした。再興された結城氏も北条氏と上杉氏佐竹氏との間で連携と離反を繰り返すが、最終的に豊臣秀吉に従って所領を安堵されている。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに慶長見聞集の原文「武蔵と下総国さかひの事」があります。

徳川家康関東入府直後には下総は万石以上の11氏が配置された。また、豊臣秀吉から所領安堵を受けた結城氏は結城城で11万石余を領して家康の次男である結城秀康を養子に迎えて後を継がせていたが、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦い後に秀康が越前北庄(現・福井市)に転封されると、名字も松平氏と改め、結城城[注釈 2]も破却されてしまい、結城氏は事実上滅亡することになった(結城氏の祭祀自体は秀康の子孫の1つである(姫路藩→前橋藩)松平家が行った)。

結城氏の移封後、下総国の諸藩のうち比較的に規模が大きいのは古河藩(最大16万石)、佐倉藩(最大14.2万石)、関宿藩(最大7.3万石)のみで、その他のはいずれも1万石前後の小藩であり、藩自体の存続期間の短いものが多かった。ほかに幕府領旗本領が入り組み、古河・佐倉・関宿の各藩も含めて藩主の交替が頻繁であったために下総国全域を統合するような政治文化は醸成されなかった。近世初期(1683年(貞享3年)また一説によれば寛永年間1622年 - 1643年)に、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。国内の村数は天保期には約1620か村を数えた。

1867年慶応3年)の大政奉還の時点で下総国内には結城、古河、関宿、佐倉、高岡多古小見川の8藩と幕府領、旗本領が置かれた。1868年(慶応4年、明治元年)、幕府が崩壊して明治政府が関東地方を制圧すると、下総国内の旧幕府領・旗本領は下総知県事(佐々武直武のち水筑龍)の管理下に置かれた(一部は武蔵知県事または安房上総知県事の所管)。1869年(明治2年)に下総知県事の管轄区域に葛飾県が置かれ、水筑龍が知事となって1万3600石余を支配した。一方、1870年(明治3年)には従来の8藩のほかに曾我野藩が新たに置かれた。1872年(明治4年)廃藩置県によって各藩は県に改変、同年11月に下総国内の各県が統合され、西半の9郡(結城、豊田、岡田、猿島、葛飾、相馬、印旛、埴生、千葉)に印旛県が成立し、東半の3郡(香取、匝瑳、海上)は常陸国の南半部とともに新治県となった。


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