下目黒
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下目黒
町丁
権之助坂(目黒通り
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}下目黒下目黒の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分38.8秒 東経139度42分32.72秒 / 北緯35.627444度 東経139.7090889度 / 35.627444; 139.7090889
日本
都道府県 東京都
特別区 目黒区
面積[1]
 ? 合計0.9679 km2
人口(2021年令和3年)4月1日現在)[2]
 ? 合計21,676人
 ? 密度22,000人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号153-0064[3]
市外局番03[4]
ナンバープレート品川

下目黒(しもめぐろ)は、東京都目黒区の地名。現行行政地名は下目黒一丁目から下目黒六丁目。郵便番号は153-0064[3]
地理

目黒区東部地区に属する[5]。北で目黒一・二・三・四丁目、東で品川区上大崎四丁目、南で品川区西五反田三・四丁目、南西で品川区小山台一・二丁目、西で目黒本町一丁目、北西で中町一丁目と接する。町域の東部には平安時代前期の創建とされる瀧泉寺(目黒不動)があり、毎月28日の縁日には多くの人出で賑わいを見せる。

一丁目と三丁目は坂が多く、中でも行人坂は都内屈指の急坂である。四半世紀前[いつ?]の冬、凍結した行人坂をはるか下まで滑り落ちて大怪我する歩行者が続出することがあり、現在では手摺りが取り付けられている。

目黒駅を出発し、坂の町である一丁目を下ると目黒川で、目黒川を越すと平坦な二丁目。山手通りを越すと今度は上りになって三丁目。三丁目の先は四丁目から六丁目まで順に並び、四丁目から六丁目はおおむね平坦である。
河川

目黒川

羅漢寺川



権之助坂(一丁目)

行人坂(一丁目)

三折坂(三丁目)

石古坂(三丁目)

男坂 女坂(目黒不動境内)(三丁目)

世帯数と人口

2021年令和3年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
下目黒一丁目932世帯1,433人
下目黒二丁目4,005世帯6,416人
下目黒三丁目2,563世帯4,017人
下目黒四丁目1,523世帯2,806人
下目黒五丁目1,869世帯3,950人
下目黒六丁目1,437世帯3,054人
計12,329世帯21,676人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]

丁目番地小学校中学校
下目黒一丁目全域目黒区立下目黒小学校目黒区立大鳥中学校
下目黒二丁目全域
下目黒三丁目全域
下目黒四丁目全域目黒区立不動小学校
下目黒五丁目全域
下目黒六丁目全域

地価

住宅地の地価は、2021年令和3年)1月1日公示地価によれば、下目黒3?5?22の地点で73.7万円/m2となっている[7]
歴史葛飾北斎富嶽三十六景』より「下目黒」歌川広重名所江戸百景』より「目黒太鼓橋夕日の岡」

江戸時代の下目黒は下目黒村を形成し、米・麦・菜・タケノコなどを栽培する普通の農村であったが、下目黒村でも一部、大鳥神社や目黒不動(瀧泉寺)を中心とする寺社群は江戸町民が多く参詣する門前町を形成し茶屋・料理屋・土産物屋で繁盛していた。これらを訪れる目黒詣では江戸市民の四季折々の楽しみとして賑わい、行人坂権之助坂は参詣及び下目黒村の農産物を運ぶ道として交通が多かった[8]

目黒一帯は江戸時代から明治にかけてタケノコの名産地として知られていた。目黒不動の門前の数軒の茶屋ではタケノコ飯が名物として、筍の旬にはこれが目当てで参詣する人が多かったとされる[9]。行人坂から目黒川目黒太鼓橋で渡り、門前まで至る1kmほどの道の両側には、タケノコ飯の他にアワ餅や飴などの店が並んでいた[10]

門前町は明治時代には行楽地から花街に変貌し、五百羅漢寺成就院(蛸薬師)の間には多くの料亭があった。大正時代半ばからは市街地化が急速に進んだ[10]
地名の由来

下目黒の地名は旧来の下目黒村に由来する。「目黒」の地名の由来は諸説あり定かでない。瀧泉寺に祀られる不動明王に由来するともいう。
河川詳細は「羅漢寺川」を参照

目黒川の支流である羅漢寺川が下目黒を西から東に横断していたが、1960年代後半から1980年代半ばにかけて暗渠化された[10]。また、羅漢寺川の支流である六畝(ろくせ)川と入谷川が下目黒を北から南に縦断していたが、これらも現在は暗渠になっている。
目黒花壇・苔香園詳細は「目黒花壇・苔香園」を参照

現在の下目黒四丁目の南部に存在した、入谷川の水を利用した[10]庭園。1902年(明治35年)頃に開園し、1920年(大正9年)頃に閉園した。明治時代には向島百花園と並ぶ野趣あふれる庭園として知られていた。
目黒競馬場詳細は「目黒競馬場」を参照

現在の下目黒四丁目?六丁目付近に存在した競馬場。1907年明治40年)開場、宅地化の波に押され1933年昭和8年)閉場。その役割は現在の東京競馬場府中市)に引き継がれている。

目黒通りを走る東急バス「元競馬場前」停留所近くには、目黒競馬場跡を示す戦前の大種牡馬であるトウルヌソルの銅像が建てられている。
大円寺詳細は「大円寺 (目黒区)」を参照

行人坂の途中にある大円寺は見るべき仏像の多い古刹だが、明和九年(1772年)の江戸の大火事・明和大火の火元になったことで知られる寺である。


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