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下河辺 三史(しもこうべ さんし、1911年10月16日 - 1993年1月17日)は、日本の実業家。 日本鉱業(現・ENEOS)の社長を務めた下河辺建二の次男として東京府(現・東京都)に生まれる[1][2][3]。兄の下河辺孫一は下河辺牧場の創業者となっている[1][2][3][4]。 1932年高千穂高等商業学校(現・高千穂大学)を卒業して日立製作所に入社[3]。立憲政友会所属の衆議院議員・芦田均の長女・美世と結婚し、3男をもうけた[3][4][5]。 戦後、義父の芦田が幣原内閣の厚生大臣として入閣すると、日立を退社して厚相秘書官となる[3][5]。芦田が片山内閣の外務大臣就任にともない外相秘書官[3]、芦田内閣発足と同時に首相秘書官となった[3][4]。 その後、日立グループの商社・日製産業(現・日立ハイテク)に取締役営業部長として入社[3]、1959年常務に就任[3]。その後1964年専務となり、1965年7月社長に就任[3][4][5]。1968年からは日立リース(現・三菱HCキャピタル)取締役も兼任した。その後1981年6月会長に[3]、1985年相談役に退いた。 山下汽船(現・商船三井)常務や山栄船舶社長等を務めた漆野寿一は義兄[1][3]。 長男の下河辺元春は国際政治学者の進藤榮一とともに「芦田均日記」の編纂をしたことで知られている[3][5]。
来歴
親族