下毛野君
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上毛野氏

氏神とされる赤城神社群馬県前橋市
氏姓上毛野君(公)
のち上毛野朝臣
始祖称・豊城入彦命
崇神天皇皇子
種別皇別
本貫上毛野(現 群馬県
のち山城国右京
著名な人物人物節参照
後裔氏族節参照
凡例 / Category:氏

上毛野氏(かみつけのうじ/かみつけぬうじ[注 1])は、「上毛野」をの名とする氏族

第10代崇神天皇皇子豊城入彦命を祖とする皇別氏族で、「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。

日本書紀』には豊城入彦命に始まる氏族伝承が記載されており、上毛野氏以外にも伝承を共有する諸氏族がある。本項では、それらの氏族全般についても解説する。目次

1 概要

2 出自

3 伝承

3.1 日本書紀

3.2 国造本紀


4 歴史

5 渡来系の上毛野氏

6 系譜

7 主な人物・氏族

7.1 人物

7.2 氏族


8 考証

8.1 毛野との関係

8.1.1 文献の考証

8.1.2 考古資料による考証


8.2 氏族の広がり


9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

概要

氏の名の「上毛野」に見えるように、古代に上毛野地域(現・群馬県)を拠点とした豪族である。「毛野(けの/けぬ)」とは古代の群馬県・栃木県周辺を指す地域名称で、現在の北関東に比定されている[1]。毛野地域のうち「上毛野」は「上野(上野国)」に転じ現在の群馬県に相当し、「下毛野」はのちに「下野(下野国)」に転じ現在の栃木県に相当する。群馬県には数多くの古墳が築かれ、古代日本において有数の勢力であったと考えられている(詳しくは「毛野」を参照)。

日本書紀』には、崇神天皇皇子豊城入彦命に始まる独自の系譜伝承が記されている。その中で、中央貴族が毛野地域に派遣され、その経営に携わったと伝える。ただし、実際のところ在地豪族か中央派遣氏族かは明らかとなっていない[2]。また同書には上毛野氏の蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の伝承があり、対外関係に携わった氏族であることも示唆される。

大化以後には、毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣[注 2]と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。『新撰姓氏録』にはこれら6氏族が上記の伝承を共有したことが見えるが、その他にも多くの氏族の伝承共有が同書に見え、その数は合計で40氏弱にも及ぶ[3]。それら関係氏族の経緯・広がりや毛野との関わりについては、未だ明らかとはなっていない。

8世紀後半以後は、その東国出身氏族とは別に渡来系氏族が「上毛野」を仮冒し、外交交渉や学問の素養で名を表して以後の氏族における中心をなした[4][注 3]
出自

日本書紀』には第10代崇神天皇皇子豊城命(豊城入彦命/豊木入日子命)に東国統治を命じたと記載するが、その豊城命について「上毛野君・下毛野君の祖」であると付記している[原 1]。なお豊城入彦命が上毛野君・下毛野君の祖である旨は、『古事記』にも記されている[原 2]

平安時代初期の弘仁6年(815年)『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 右京)条には「崇神天皇皇子の豊城入彦命の後」と記載されており[原 3]、豊城入彦命の後裔と公称した。また『先代旧事本紀』「国造本紀」では、崇神天皇の御世に豊城入彦命孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時に上毛野国造に封ぜられたと記載されており[原 4]、上毛野氏が国造の任にあったと推測されている[5]
伝承
日本書紀

『日本書紀』には、豊城入彦命(とよきいりびこのみこと、豊木入日子命/豊城命とも)に始まる以下の氏族伝承が記載されている。

東国統治豊城入彦命は第10代崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(紀伊国荒河戸畔の女)の間に生まれた皇子で、「上毛野君・下毛野君の祖」と付記されている[原 1](『古事記』も同様[原 2])。崇神天皇48年、天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目命(のちの垂仁天皇)に夢の内容を問うた結果、活目命を皇太子とし豊城命には東国統治を命じたという[原 1]垂仁天皇5年、八綱田(やつなた)は命を受け狭穂彦を討ち、「倭日向武日向彦八綱田」の名を与えられた[原 5]。『新撰姓氏録』から、八綱田は豊城入彦命の子とされる[原 6]景行天皇55年、豊城入彦命の孫の彦狭島王(ひこさしまおう)[注 4]東山道15国の都督に任じられた。しかしながら、途中の春日の穴咋邑にて没し、上野国に葬られた[原 7]。代わって景行天皇56年、彦狭島王の子の御諸別王(みもろわけのおう)が彦狭島王に代わって東国を治め、蝦夷を討った[原 8]


対朝鮮・対蝦夷関係での軍事・外交伝承神功皇后49年、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)は将軍に任命され、新羅に派遣された。そして新羅の軍を破り7国を平定してのち、百済近肖古王貴須王子と会見した[原 9]応神天皇15年、荒田別・巫別(かんなぎわけ:鹿我別と同一人物とされる)が百済に派遣され、王仁を連れ帰った[原 10]仁徳天皇53年、竹葉瀬(たかはせ)が、貢調しない新羅の問責のため派遣された。途中で白鹿を獲たため、一旦還り仁徳天皇に献上し再度赴いた。のち、弟の田道(たぢ)も新羅を討ったという[原 11]


武蔵国造の乱安閑天皇元年(534年?)、武蔵国造笠原直使主小杵の内紛(武蔵国造の乱)において、上毛野君小熊は小杵に援助を求められたという[原 12]

国造本紀

先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が上毛野氏関連として記載される。


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