しもかわ たっぺい
下川 辰平
本名下川 辰典
生年月日 (1928-12-11) 1928年12月11日
没年月日 (2004-03-25) 2004年3月25日(75歳没)
出生地 日本・福岡県福岡市
民族日本人
血液型AB型
職業俳優
ジャンル映画、テレビドラマ
活動期間1954年 - 2004年
配偶者あり
主な作品
テレビドラマ
『竜馬がゆく』
『天と地と』
『太陽にほえろ!』
『長七郎江戸日記』
『スクール☆ウォーズ』映画
『黒部の太陽』
『どですかでん』
『華麗なる一族』
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下川 辰平(しもかわ たっぺい、1928年[1]12月11日[2][1] - 2004年3月25日[1])は、日本の俳優。本名:下川 辰典(しもかわ ときふみ)[2][1]。
福岡県[2]福岡市出身。武蔵野美術大学中退[1]。前田プロに所属していた[2]。 1945年、陸軍士官学校に合格したが敗戦[3]、画家を志し、武蔵野美術大学に入学するが[4]、中退して帰郷する。絵ごころあって福岡の電機ホールで舞台装置を手伝っているうちに[3]、1954年、ラジオ九州(現在のRKB毎日放送)の放送劇団に2期生として入団し俳優活動をスタート[4]。福岡市民劇場の座長を務めた。ワンマンで地元では一番高い出演料をもらっていたという[3]。 1964年、杉村春子にめぐりあい、再び上京して文学座附属演劇研究所に入り[4]、研究生を経て1968年に文学座座員に昇格。『飢餓海峡』(1972年)、『天守物語』(1974年)ほか多くの舞台に立ち、1977年の舞台『天守物語』を最後に退座する[4]。 1972年、『太陽にほえろ!』シリーズでの通称「長さん」こと野崎刑事役[注釈 1]でレギュラー出演し、一躍有名となる。以降、叩き上げの刑事役はハマり役といわれた[4]。企画書の段階である『明日に燃えろ!』
来歴・人物
『太陽にほえろ!』で五代刑事役を演じていた山下真司とは1984年に『スクール☆ウォーズ』で再共演し、自身は山城晋平校長で出演した。放映当時の「支配的な教育(徹底的な管理教育)」「不良生徒は追い出せ」という思想とは正反対の「好き好んで不良になる生徒がいるのだろうか」という生徒目線の校長を演じきって代表作の1つとなった。
黒澤明からは『どですかでん』への出演で気に入られており、その後の作品の出演依頼を受けていたが、スケジュールの都合で叶わなかった[注釈 2]。
晩年は病気のため地元に帰郷していた。
2004年3月25日、敗血症のため福岡市内の病院で死去。75歳没。当時のワイドショーで、下川の死を知らなかった朝丘雪路が、レポーターに下川の死について聞かれ「えっ辰平さんが?」と驚く様子が放送された。なお葬儀には長年出演した『太陽にほえろ!』の共演メンバーを代表して竜雷太が東京からかけつけた。
エピソード
学生時代はラグビーをやっていたこともあり、走る姿などにその片鱗がうかがえた。ウイングで100mを12秒台で走っていたという[5]。
『太陽にほえろ!』作中では、野崎家一家の出演やエピソードといった「プライベート」に関してのストーリーが群を抜いて展開されていた。オフィシャル本によれば『頑張ってください。応援しています』といったファンレターと同時に、『親とうまくいかない』『子供とどう接すればよいか?』といった親のない子や受験生から悩み相談の手紙が多数寄せられた。「役柄からですかね。自分が子供がいないので、コンプレックスを抱きながら芝居しているのが、かえって父親らしく見えるのかもしれませんね。」といった旨の下川や番組スタッフの話が披露されている[6]。
『太陽にほえろ!』が盲学校で励ましのロケーションをしたときは、優しい下川が盲学校の生徒の中で一番人気があったという[7]。
『太陽にほえろ!』の新人刑事第1号である萩原健一が、殉職シーンで「人が死ぬ間際には、どんなことを思ったり言ったりするのだろうか?」と悩んでいたとき、下川は「戦争中の特攻隊員が故郷のお母さんのことを思い叫びながら、敵機に突っ込んでいった」とアドバイス。そのアドバイスを元に、萩原演じるマカロニ刑事の殉職シーンの最期の台詞が決定した[注釈 3]。松田優作演じるジーパン刑事の殉職時の台詞「なんじゃあ、こりゃあ!?」も、松田が下川から聞いた、意味不明の絶叫をして亡くなった入院患者のエピソードが元になっている。ほかにも、松田が下川のもとに来て、その際、イェジ・アンジェイェフスキの『灰とダイヤモンド』の話をしたことで、あの殉職シーンになったとも語っている[9]。下川は後年のインタビューで太陽にほえろ!を殉職で降板したかったとたびたび語っていて、護送中の流れ弾に当たっての殉職などの案があったという[10]。
竜雷太によると、萩原健一が最初の妻である小泉一十三とオープンカーに一緒に乗っていたときに、なぜか下川が後部の狭い座席に乗っていた。萩原としては下川に同乗してもらうことで、カモフラージュしているつもりだったという[11]。
動物が大好きで、動物の動きから芝居のヒントを得たこともあった[12]、また休日には一日スズメを観察していたり、太陽にほえろ! オーストラリアロケでも一番に動物園を訪れた[12]。またハイエナが大好きで、ハイエナの研究家であった[12]。
出演
映画
大地の夜明け [13]
筑豊のこどもたち (1960年、東宝)[14]
踊子とカメラマン (1960年、桜映画社)[15]