下出義雄
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大日本帝国政治家下出 義雄しもいで よしお
肖像写真
生年月日1890年5月12日
出生地大阪市
没年月日 (1958-01-20) 1958年1月20日(67歳没)
死没地名古屋市昭和区天白町
出身校東京高等商業学校(現一橋大学専攻科
前職実業家
所属政党翼賛政治体制協議会推薦
称号従五位
勲三等瑞宝章
親族父・下出民義(貴族院議員)
衆議院議員
選挙区愛知県第1区
当選回数1回
在任期間1942年4月30日 - 1945年12月18日
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下出 義雄(しもいで よしお、1890年明治23年)5月12日 - 1958年昭和33年)1月20日)は、大正から昭和にかけて活動した日本の実業家・教育者・政治家。実業家で貴族院議員も務めた下出民義の長男。父の事業を継ぎ名古屋財界にて活動し、大同製鋼(現・大同特殊鋼)社長や名古屋証券取引所理事長などを務める。事業界での活動の傍ら学校経営にも携わったほか、1942年(昭和17年)から1期のみ衆議院議員も務めた。
経歴
生い立ち父・下出民義

下出義雄は1890年(明治23年)5月12日下出民義の長男として大阪市に生まれた[1]。母あいは、父民義とともに大阪市の石炭商社に参加していた大阪安治川の石炭商西井直次郎の妹である[1]。父民義は1889年に大阪から愛知県へと移り、名古屋市近郊の熱田町にて石炭商として開業していたが、母は郷里の大阪へと帰って義雄を出産した[1]。母が産褥熱で倒れたため堺市にあった民義の姉の元で養われ、9月になって父のいる熱田へと移った[1]

1902年(明治35年)4月愛知県立第一中学校(愛知一中)へ入学。1908年(明治41年)に卒業して神戸高等商業学校へ進み、1913年(大正2年)同校卒業の後は東京高等商業学校専攻科(経済史専攻、現・一橋大学)へ進学、1915年(大正4年)、26歳のとき卒業した[2]。東京高商では教授の福田徳三から研究室に残って学者になるよう誘われたという[3]
初期の財界活動

東京高商卒業後は東京海上保険に入社し、社長各務鎌吉の秘書として2年間勤務する[4]。父民義が各務に頼んで入社させたという[5]

1917年(大正6年)9月、株式会社電気製鋼所の取締役兼支配人となった[6]。同社は1916年8月に名古屋の電力会社名古屋電灯の製鋼部が独立することで発足した企業で、フェロアロイ(合金鉄)や特殊鋼を製造していた[7]。名古屋電灯の常務(のち副社長)であった父民義が初代社長を務めていたが、相談役に退くのと入れ替わりで義雄が支配人に就任[7]。電気製鋼所では社長の福澤桃介が仕事をほとんど常務の寒川恒貞に任せていたので義雄は寒川とともに仕事に携わるが、実際には寒川がほとんど全責任を負っており、義雄はまだ28歳の青年に過ぎず支配人とはいえ見習いや使い歩きであった[8]

電気製鋼所の事業の中で、常務の寒川恒貞は製鋼用電極の自給を考案し、東海電極製造株式会社(現・東海カーボン)の設立に動き始める[9]。設立に際し義雄は名古屋の青年実業家の間を回って株式の募集を手伝い、1918年(大正7年)4月に同社が設立をみると初代社長寒川の下で常務取締役に就任した[9]

東海電極製造の常務は1919年11月まで務めた(取締役には留任)[10]。翌1920年(大正9年)7月には電気製鋼所支配人も辞任した(同じく取締役には留任)[11]。その後電気製鋼所は大同電力から独立した大同製鋼(初代)と統合することとなり、1922年(大正11年)7月製鋼事業を大同製鋼へと移管、兼業の電気事業のみを残して木曽川電力に社名を変更した[12]。電気製鋼所の製鋼事業を統合した大同製鋼は株式会社大同電気製鋼所となったが、義雄はこの時点では同社に関与していない[12]

また電気製鋼所で勤める傍ら、1920年春の戦後恐慌で苦境に陥っていた近藤繁八経営の名古屋紡績株式会社の整理を引き受け[13]、同年10月専務取締役に就任した[2]。同社の経営は初め順調であったが[13]、最終的には素人の手には負えず失敗に終わる[3]。同社は1924年(大正13年)に父民義が社長に就任し、後に日東紡績へ合併した[14]
学校経営

名古屋紡績での失敗後、義雄は東邦商業学校(現在の東邦高等学校の前身)の経営に傾倒する[3]。東邦商業は父民義が関西電気(旧名古屋電灯、後の東邦電力)副社長退任時の退職金を学校設立基金とし[14]、自ら設立者および校主となって1923年(大正12年)4月に開校した学校である[15]。初代校長には民義と同時期に名古屋市会議員を務めていた元市長大喜多寅之助[14]、義雄は豊田利三郎とともに同校理事に任ぜられた[15]

義雄は東京高商在学中に研究者を志し、卒業後学術書出版を目的とする「下出書店」を開いた経験から、実業界にありながらも学問への志しを捨てきれなかったため、財界不況で余裕を得たのを好機として父と協力して学校経営に取り組むこととなったという[16]1926年(大正15年)8月、アメリカ合衆国キリスト教青年会 (YMCA) より招待を受け、訪米使節団の団長として渡米する[16]。次いで単身でイギリスドイツフランスイタリアを訪問して青少年教育と商業教育の実情を視察し、翌1927年(昭和2年)2月に帰国した[16]。帰国後はより教育活動に専念し、1928年(昭和3年)東邦商業学校の副校長に就任[16]。本業の弁護士業のため不在がちな校長大喜多寅之助に代わって同校の実質的な責任を負った[16]
大同製鋼社長就任


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