下内間木
大字
東南側下内間木飛地
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}下内間木下内間木の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度48分56.44秒 東経139度37分02.95秒 / 北緯35.8156778度 東経139.6174861度 / 35.8156778; 139.6174861
国 日本
都道府県 埼玉県
市町村 朝霞市
設置1889年(明治22年)4月1日
人口(2017年(平成29年)10月1日現在)[1]
? 合計246人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号351-0002[2]
市外局番048[3]
ナンバープレート所沢
下内間木(しもうちまぎ)は、埼玉県朝霞市の大字。旧新座郡下内間木村。郵便番号は351-0002[2]。 朝霞市の東南部に位置し、北部を上内間木、荒川を跨いだ東部を戸田市重瀬・内谷・美女木、東南部は和光市新倉、新河岸川を跨いだ南部を台、根岸
地理
西南部には約20ヘクタールの朝霞調節池が存在する[6]。新河岸川を跨いだ和光市新倉6丁目とは人道橋で結ばれているが、この人道橋はジャパンエナジー朝霞油槽所の石油パイプライン上に設置されたメンテナンス用設備であり、関係者以外が渡ることは出来ない。
地内は低湿な沖積低地である。かつては短冊状の水田地帯だったが、1970年代以降は工業用地及び畑作用地が増えている[7]。工場の他残土置場、中間処分場、最終処分場が散見される。また荒川沿いの河川敷は朝霞パブリックゴルフ場のコース南半分になっている[7]。
地内を南北に市道が貫いている。最寄駅は東武東上線朝霞台駅(JR武蔵野線北朝霞駅)になるが、約2 km離れている。また朝霞市内循環バス根岸台線が通っており、これを利用して朝霞台駅(北朝霞駅)に到達できる。地内には下内間木・下内間木榎戸の2つのバス停留所が設置されている。
河川
荒川 - 東辺を南流している一級河川。かつては渡船が存在した。
新河岸川 - 西辺・南辺を流れる一級河川。かつては水運に利用された。
湖沼
朝霞調節池
歴史が内間木の他入間郡池辺村・大仙波村併せて300石の土地を賜ったとされている[8][9]。
元来水害の多いところだったが、1629年(寛永6年)に旧入間川が荒川の本流になって後、水害の常襲区域となった[7]。たびたび水害に見舞われるため農民は土地の高いところに畑を作り、他は専ら散在野をはじめとする原野での採集を産業としていた[8][9]。三方を川に阻まれ、さらに原野の隔てがあったため近隣の村との交わりも疎く、貧しく質素な暮らしぶりだった[9]。外来者が殆ど無い上に貧しい村だったために家々は戸を閉ざすことが無かったと言われる[8]。また、家一軒ごとに舟を備え洪水の際には台地に逃げるようにしていたと言われる[10]。
江戸時代に入って後御料所となり、さらに後化政期には代官・川崎平右衛門の支配となっている[8][9]。江戸期には既に荒川の対岸とは地蔵河岸の渡しが存在し、航路が開かれていた[9]。『正保国絵図』に掲載されている「羽根倉渡三十五間」とはこの地蔵河岸の渡しの旧名と見られている[8][9]。この時代の小名として西口、散在、渦淵(うつけ)、おもせがある[8][9]。『武蔵田園簿』及び元禄郷帳において村高17石と記録されている[7]。1627年(寛永4年)に江川太郎左衛門による検地を受けている[9]。『新編武蔵風土記稿』では家数70軒[9]。
明治時代に入って下内間木村は1872年(明治5年)の大区小区制では第二大区第六小区、翌1873年(明治6年)の熊谷県設置以降は南第二大区第六小区に配置された[11]。