下仁田ネギ/下仁田ねぎ(しもにたねぎ)は、ネギの一種。群馬県甘楽郡下仁田町の冬季の特産品である。現在は別の地域でも栽培されているが、本来は群馬県西部の下仁田町を含む甘楽郡と富岡市の地域で栽培された[1]。江戸時代からすでに栽培が行われており、徳川幕府や大名への献上品とされていた[2]。一本ネギとしては太くて短いずんぐりした姿が特徴で、生だと非常に辛味が強いが、加熱すると甘味が引き出されてやわらかい食感になる[1]。下仁田ネギ(安中産) 下仁田ネギの由来についてあまり詳しいことは分かっていない。中国西部より我が国北部に入った「加賀」という品種との類似が取りざたされているが、ルーツについてはこれ以上の追跡はできない。 なお、下仁田ネギという名称の名付け親は、牧野富太郎である。オオネブカまたはシモニタネギと命名され、以後市場でもこの名で取引されている[3]。 現在の下仁田ネギの原産地(原種圃)は、旧・西牧村小出屋の佐藤長太郎の畑である[4]。 文化2年11月8日付で「ネギ200本至急送れ、運送代はいくらかかってもよい」という趣旨の江戸の大名や旗本から名主に宛てたと思われる手紙が残されており、遅くともこの頃には下仁田ネギが栽培され、珍重されていたことがわかっている[3]。こんなに素晴らしいネギの味を、江戸の将軍にも味わってもらおうと幕府にも献上された[5]。主膳殿 「下仁田ねぎ」の名は、地元の土産やお歳暮使われた明治時代からといわれる[5]。明治4年、東京で開催された万国文化交歓文明輸入博覧会に出品され、名声を得る[3]。 1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会に国産の絹糸が出品され、それを機に富岡製糸場に関係者が訪れるようになる。関係者へのお歳暮・お土産に利用された[8]。 大正時代になると、栽培地が山間から平地の馬山地区などに移り、品種改良が進んで、この地区は下仁田ネギの主産地となる[5]。 1934年(昭和9年)、一部篤農家による皇室への献上が行われ[8]、また上毛かるたに「ねぎとこんにゃく下仁田名産」と詠まれて知名度が高くなった[6]。これに伴い、群馬県農事試験場が前橋市で栽培してみたがうまくいかなかった[7]。下仁田の土壌を前橋まで持っていってもやはり結果は同じであった。長野県農事試験場でも栽培を試みたが、育ちすぎて葉が硬い棒のようになり、とても食べられたものではなかった[4]。 戦後の1952年(昭和27年)から品種改良に取り組み、5年をかけて固定品種として復活した[9]。1975年以降、下仁田ネギの生産の増加は顕著に認められる。背景には、米の生産調整、高級料理店における伝統野菜の需要増加、さらに歳暮としての需要増加がある[10]。 年生産農家(戸)作付面積(ヘクタール)生産量(トン) 下仁田ネギは非分蘖性の一本ネギで、俗に白根と呼ばれる葉鞘部は長さ15 - 25センチメートル (cm) 、直径2.5 - 6 cmと、太く短い特徴的な形をしている[7][10][9]。地上部の葉も濃緑色で太い。このような形・大きさはネギ全体の中でも特異なものである。太くて葉先が丸いダルマ系、全体にやや細長い西野牧系、草丈がやや高めの利根太系の3系統がある[2]。 秋まきで冬が旬となり、特に霜に当たってからは味がのって美味しさが増すといわれている[2]。
起源
来歴
1973約1008.0103
1976約12018225
198414048652
ネギの特徴と栽培