上鶴間
町丁・大字
東林間駅東口(上鶴間7丁目)
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度31分19秒 東経139度26分34秒 / 北緯35.522019度 東経139.44285度 / 35.522019; 139.44285
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 相模原市
行政区南区
地区大野南地区(1?3・6丁目)
東林地区(1・4?8丁目)
相模台地区(大字)
人口情報(2020年(令和2年)10月1日現在[1])
人口17,183 人
世帯数7,969 世帯
面積([2])
2.008587167 km²
人口密度8554.77 人/km²
郵便番号252-0302[3]
市外局番042(相模原MA)[4]
ナンバープレート相模
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鶴間村・上鶴間村・下鶴間村周辺の現在の区画。地区分割や編入も繰り返されているため、江戸時代の区域とは必ずしも一致しない。
上鶴間(かみつるま)は、神奈川県相模原市南区の地名。現行行政地名は上鶴間一丁目から上鶴間八丁目で、住居表示未実施の大字上鶴間が在日米軍相模原住宅地区に残る。
なお、この項の「歴史」の節では元の大字上鶴間の区域全体について述べる。旧大字の区域全体の現状については「相模大野」、「上鶴間本町」の各項も参照されたい。 相模原市南区の東部に位置し、東は国道16号を境に同区上鶴間本町と、西は小田急江ノ島線を境に同区東林間と、北は同区相模大野と、南は市境をはさんで大和市の下鶴間およびつきみ野と隣接する。一丁目?八丁目に分かれ、ほぼ中央部を貫流する深堀川を挟んで東側が一丁目?三丁目、西側が四丁目?八丁目となっている。 深堀川は元は相模原台地上の宙水に由来する大沼(東大沼二丁目・三丁目)、小沼(若松二丁目)などを水源としていたが、現在では相模大野七丁目・九丁目よりも上流では暗渠化されている。上鶴間の区域内では狭く深い谷を穿ちながらゆるやかに蛇行しつつ南東に向かって流れ、本来は大和市内を流れて目黒橋付近で境川に合流していたが、大和市内(つきみ野地区)の宅地開発と相模原市側の下水道整備事業の一環として市境直前の鶴舞橋付近から台地地下を短絡する深堀トンネルが1968年(昭和43年)に竣工し、大和市との境界付近(現上鶴間本町九丁目)で境川に注ぐようになった。その結果、本来は深堀川の下流であった大和市区間は目黒川として別個に独立した川とされている。 域内は深堀川沿いの谷も含めてほぼ全域が宅地化されているが、多くは無計画に個別に宅地化が進められたために元の農地の地割をそのまま継承しており、細長い区画や袋小路など複雑な街路網が見られる。小田急の東林間駅前を横切る街路に沿った六丁目・七丁目に商店街が形成されているほか、主に徒歩圏内の住民を対象としたスーパーマーケットが立地する。これに対して一丁目?三丁目の国道16号沿いには自動車による来店者を対象とするロードサイド店舗が多く出店している。農地はほぼ消滅しており、雑木林も大和市との境に沿って八丁目の南端にまとまった面積のものが分布するのみである。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、上鶴間3-5-10の地点で19万4000円/m2、上鶴間6-8-4の地点で24万2000円/m2、上鶴間7-17-29の地点で23万8000円/m2となっている[5]。 明治初期まで相模国高座郡上鶴間村。高座郡大野村(1889年)、同郡相模原町(1941年)を経て、1954年以降は相模原市、2010年からは同市南区に所属。 鶴間は元来、現在の相模原市南区東部および大和市北部、さらに東京都町田市南部にまたがってひろがる地名である。相模国高座郡に属するが、近世初期に境川(高座川)が武蔵国との境界とされたため、左岸(東岸)の区域が武蔵国多摩郡鶴間村となった。これが現在の町田市鶴間となる。右岸(西岸)では南北に二分割され、北半が相模国高座郡上鶴間村、南半が同郡下鶴間村となった。後者が現在の大和市下鶴間などとなる。 上鶴間村は現在の相模大野地区や東林間地区など南区東部の広い範囲を占めていたが、古くからの集落は境川沿いの段丘崖周辺(現在の上鶴間本町)に分布し、村域の大部分を占める相模原台地上は「相模野」と総称される原野の一部であり、草刈り場として周辺農村の入会地とされていた。江戸時代後期には神奈川往還沿いに集落が立地するようになるが、深堀川以西の開墾は主に明治期に入ってからのこととなり、親村となった当村内の集落名から「谷口(やぐち)新開」、「中村新開」、「篠原新開」、「中和田新開」と呼ばれた。これらは「新開」と呼ばれ、「清兵衛新田」、「矢部新田」、「淵野辺新田」(いずれも中央区)、「大沼新田」(南区)といった江戸時代に開かれた新田と区別される。明治初期に養蚕が盛んになると台地上には桑畑が広がるようになった。 上鶴間村は江戸時代を通じて幕府直轄領(天領)または旗本領とされ、幕府崩壊後の1868年(慶応4年・明治元年)に明治政府直轄となり神奈川府、次いで神奈川県の所属となった。 1889年(明治22年)の町村制施行に際して同郡の上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村と合併して高座郡大野村の一部となった。 高座郡大野村の発足により、旧上鶴間村は同村の大字上鶴間となった。 1908年(明治41年)に横浜鉄道(1917年(大正6年)に国有化。現JR東日本横浜線)が開業し、原町田駅(現町田駅)が開設されると、境川をはさんで同駅に至近な区域で市街化が始まった。 1927年(昭和2年)、小田原急行鉄道(現小田急電鉄)小田原線が、また1929年(昭和4年)には同江ノ島線が開業した。開業当初、小田原線は当大字内に駅を設けず、江ノ島線との分岐点(相模大野分岐点)に信号場を置いたのみであったが、江ノ島線上には開業と同時に東林間都市駅(現東林間駅)を設けて、同社資本による「林間都市」開発事業が進められた。しかし、当時としては都心から遠過ぎたことから宅地の販売は進まず、この事業は頓挫した。 これに代わって1937年(昭和12年)、座間町(現座間市)と新磯村(現相模原市南区)にまたがって陸軍士官学校が移転してきたことを皮切りに、当大字内にも臨時東京第三陸軍病院(一部は新磯村。
地理
河川
深掘川
地価
歴史
上鶴間村
大字上鶴間
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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