うえのはらまち
上野原町
上野原の大ケヤキ
上野原町旗上野原町章
上野原町旗上野原町章1956年6月28日制定
廃止日2005年2月13日
廃止理由新設合併
北都留郡上野原町・南都留郡秋山村 → 上野原市
現在の自治体上野原市
廃止時点のデータ
国 日本
地方中部地方(甲信越地方)
都道府県山梨県
郡北都留郡
市町村コード19441-7
面積125.51 km2.
総人口26,555人
(2004年)
隣接自治体大月市、小菅村、秋山村、東京都檜原村、神奈川県藤野町
町の木ヤマモミジ
町の花リンドウ
町の鳥ウグイス
上野原町役場
所在地〒409-0112
山梨県北都留郡上野原町上野原3758
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度37分56秒 東経139度06分33秒 / 北緯35.63222度 東経139.10928度 / 35.63222; 139.10928
2005年(平成17年)2月13日に隣接する南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅した[1]。 郡内地方には縄文時代の遺跡が数多く分布するが、町域でも桂川や鶴川沿いを中心に数多くの遺跡があり、近年の開発により新たな発見が相次いでいる。縄文時代には中期をピークに早期からの遺跡が発掘されているが後晩期には減少し、弥生時代以降の遺跡は少ない。 古代の律令制下では都留郡に属し、町域は南西部が都留郷に、東部は古郡郷に属していたと考えられている。平安時代後期、上野原を中心とする古郡は武蔵七党の横山氏から分出した古郡氏の支配が及び、鎌倉時代の建暦3年(1213年)には和田合戦で古郡氏が滅亡すると加藤氏が支配し、両氏が支配拠点とした居館と伝わる内城館跡がある。 都留郡は甲斐国と武蔵国・相模国の国境であるため交流が強い一方で係争も起こっている。室町時代の応永33年(1426年)には鎌倉公方の足利持氏による武田信長追討の侵攻を受けており、文明10年(1478年)には加藤氏が長尾景春の乱に荷担したため、太田道灌の侵攻を受けた。 戦国時代には相模国の後北条氏との関係が強まり、外交関係の変化に伴いさまざまな出来事が起こっている。享禄3年(1530年)に八坪坂において後北条氏と郡内地方を領する国衆・小山田氏との合戦が起こっており、天文23年(1554年)には武田晴信(信玄)の娘が後北条氏に嫁ぐ際に上野原において引き渡されている。加藤氏は国中地方を領する守護武田氏に属して国境の防備にあたり、戦国時代の永禄12年(1569年)には武田氏による相模侵攻にも加わっている。 西原には武田氏の一族である西原武田氏(一宮武田氏)が配置されており、同所に鎮座する一宮神社は一宮浅間神社(笛吹市一宮町)を勧請した神社であるという[2]。西原武田氏の詳細は不明であるが、『甲斐国志』によれば西原に居館があり「丹波屋敷」と称されていたという[3]。一宮神社の天文9年(1540年)の棟札には檀那として「源朝朝臣武田四郎太郎有氏」の名が見られ、『甲斐国草稿』によれば、天正2年(1574年)の棟札には武田有氏(丹後守)の名が記されていたという[3]。 大椚の日野集落の西部には長峰砦跡
地理
山: 三国山(生藤山)、高柄山、三頭山、扇山
河川: 相模川(桂川)、鶴川、仲間川
歴史
先史・古代
中世