かみさとまち
上里町旗上里町章
1971年11月3日制定[1]
国 日本
地方関東地方
都道府県埼玉県
郡児玉郡
市町村コード11385-9
法人番号5000020113859
面積29.18km2
総人口29,954人 [編集]
(推計人口、2024年4月1日)
人口密度1,027人/km2
隣接自治体本庄市、児玉郡神川町
群馬県:高崎市、藤岡市、佐波郡玉村町
町の木八重椿
町の花サルビア
上里町役場
町長[編集]山下博一
所在地〒369-0392
埼玉県児玉郡上里町大字七本木982
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度15分06秒 東経139度08分41秒 / 北緯36.25164度 東経139.14475度 / 36.25164; 139.14475座標: 北緯36度15分06秒 東経139度08分41秒 / 北緯36.25164度 東経139.14475度 / 36.25164; 139.14475
上里町役場
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上里町 (かみさとまち) は、埼玉県の北部に位置し、児玉郡に属する町。人口は約3万人。 埼玉県の最北端の町で、東京都から85キロメートル圏内に位置し、神流川、烏川を挟み群馬県との県境を有する。町の南東部には大規模な工業団地がある。 全国的に見ても寒暖の差が少なく、降水量もそれほど多くない。冬から春先にかけては、冷たく乾燥した風が強いため、散在する農家は北西側に屋敷林を設け、風を防いでいる。屋敷林は、カシやケヤキ等により構成されており、重要な景観要素になっている。 上里町の旗は、紫色地に白抜きで町章が描かれている。町章には「上」を4つ用い、それら4つが円になっている。「上」は上里町の上、そして地図上で埼玉県の最も「上」に位置することから用いられた。また、4つの「上」は、上里町が七本木村、神保原村、長幡村、賀美村の4つの村の合併によりできたものであるということであり、それらで作っている形「円」には、人の和と円満という意味が込められている。 町の木は八重椿
概要
昭和28年?昭和31年に、昭和の大合併が起き、戦後の新憲法のもと地方自治の確立を目指し、消防や社会福祉、保健衛生などの事業が住民に最も身近なものとなるように、国の主導により全国一斉に行われた。1954年(昭和29年)に児玉郡の神保原村(じんぼはら)、賀美村(かみ)、七本木村(しちほんぎ)、長幡村(ながはた)の4ヶ村が合併して成立した上里村から、1971年(昭和46年)に町制へ移行した。「上里」の名は、県内で一番上(北)に位置していること、円満な農村であること、簡単に書き易いなどがあった。
上里村の合併当時の人口は、16,979人であった。
上里のアクセントについては、「平板型」の「かみさと」のようにして読まれることが多いが、正しくは「尾高型」の「かみさと」のように語尾が下がる言い回しとなる[要出典]。
上里町長は、山下博一。 神流川、烏川を挟み、群馬県と県境にあり、北の玄関口と言われており、山間地がなく、町内全域平地である。古くは、三国街道の起点となる交通の要所であった。神流川は、水の綺麗な川で知られており、特別栽培米「かんな清流米」の名前にも使われている。 町の中心には、JR高崎線 神保原駅があり、その利便性から急速な都市化が進み、ベッドタウン化や大型店舗などが進出している。 町の東西を上越新幹線、関越自動車道が走り、北西部には上里サービスエリア、上里スマートインターチェンジがある。上里サービスエリア周辺では、上毛3山(赤城・榛名・妙義)と浅間山が眺められる景勝地でもある。 また、種子小麦の主産地で知られ、県内外に出荷されている。 出典:[2] 毘沙吐は、神流川と烏川の合流地点の南側に位置する、埼玉県の最北端の人口ゼロの大字。群馬県の高崎市と玉村町に接した地域。弘化3年(1846年)の神流川・烏川の大洪水によって、村のほとんどが流失してしまい、対岸の新町へ移転して今は誰も住んでいない人口ゼロの大字となっている。毘沙吐に行く場合は、高崎市を経由しなければならない。 毘沙吐の地名の由来は、村の神社で行われる春の農村行事で、弓で的を射てその年の豊凶を占う「御歩射
地理
大字一覧
大御堂(おおみどう)
忍保(おしぼ)
金久保(かなくぼ)
嘉美(かみ)
五明(ごみょう)
七本木(しちほんぎ)
神保原町(じんぼはらまち)
帯刀(たてわき)
堤(つつみ)
勅使河原(てしがわら)
長浜(ながはま)
八丁河原(はっちょうがわら)
藤木戸(ふじきど)
黛(まゆすみ)
三町(みまち)
毘沙吐(びしゃど)
人口ゼロの大字
江戸時代の毘沙吐村は、幕府の直轄領で、60軒程の家があり、村内に三国道の渡船場や藤ノ木河岸があった[3]。神流川・烏川を利用して舟で貨物を運んだり交通したりする舟運や漁業が盛んで、毎年鮎1200匹・鮭42本を献上していた。
神流川合戦[2]
天正10年6月2日の「本能寺の変」で、織田信長が明智光秀によって殺害されたことにより、武蔵国(埼玉県)を領地とする北条と、上野国(群馬県)を領地とする織田との関係が険悪になった。6月18日・19日の両日に、鉢形城主(寄居町)北条氏邦・小田原城主(神奈川県)北条氏直の連合軍と、織田信長の家臣である滝川一益・上野国衆(群馬県の武将)の連合軍との間で、当時「ひさいと原」と呼ばれた毘沙吐周辺で、激しい戦が行われた。これを「神流川合戦」と呼ばれている。このとき滝川一益に攻められて金窪城が消失したといわれている。対岸の新町には「神流川古戦場之碑」があり、合戦の様子が書かれている。ほかにも、上里中学校と上里北中学校の校歌を作詞した「風と光の詩人」宮澤章二が「消えてしまった村-毘沙吐」として一編の詩を読んでいる。 1883年(明治16年)12月に東京・上野と群馬・新町を結ぶ日本鉄道(現在のJR高崎線)が開通。1897年(明治30年)5月に停車場建設の工事が開始された。停車場の用地などは各市町村、地元有志からの寄付金を募って集め、日本鉄道と交渉し、11月に神保原停車場(現在の神保原駅)が開業した。
歴史