上都
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度21分35秒 東経116度10分45秒 / 北緯42.35972度 東経116.17917度 / 42.35972; 116.17917

上都の遺跡
中華人民共和国


英名Site of Xanadu
仏名Site de Xanadu
面積25,131.27 ha
(緩衝地域 150,721.96 ha)
登録区分文化遺産
登録基準(2), (3), (4), (6)
登録年2012年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図
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上都(じょうと、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Shangd?)は、モンゴル帝国)のクビライが、モンゴル高原南部(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区シリンゴル盟正藍旗南部)に設けた都。正藍旗の南のドロンノール県中心市街地から北西へ28キロメートル離れており、?河上流の閃電河の河畔に位置する。上都鎮(中国語版)からは東北20キロメートル、北京からは北へ275キロメートル。元朝の夏の首都として使われた。

1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが『東方見聞録』に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。西洋ではザナドゥ(Xanadu あるいは Xanadumoo、Zanadu、Shangdu)とも呼ばれる。2002年から修復作業が行われ[1]2012年遊牧民族農耕民族の文明の衝突と融合を示す貴重性が認められ[2]UNESCO世界遺産に登録された[3]
概要

元の皇帝に即位する前、クビライは、契丹などの活躍の場となってきたドロンノール付近のキンポウゲ科キンバイソウ属(英語版)の仲間の花が群がって咲くことから金蓮川と呼ばれる草原にオルド(幕営)を構えていた(これは「金蓮川幕府」と呼ばれる)。クビライは一貫して金蓮川幕府から南宋征服の指揮をとり、ここで即位して弟のアリクブケと帝位を争うことになる。

1256年劉秉忠(子聡、後に大都の設計も手掛ける)に命じて金蓮川付近の閃電河の河畔に、王府となる開平府を建設させた。これが上都の始まりである。1279年に南宋が滅ぶと首都は南の大都(現在の北京)に遷され、開平府は名を上都と改められて陪都となり、夏営地すなわち夏の間に皇帝が避暑と政務をおこなう行宮とされた。

上都はほぼ正方形に近い形状をしており、外側から、外城・内城・宮城の三つの方形の都城が存在した。また上都の東西には、東涼亭と西涼亭という狩猟用の行宮も存在した。

内城と宮城は線対称な配置になっており、後に建設された大都の平面計画に相似しているが、外城は内城・宮城の中心軸からずれた位置にあり形も対称ではない。おそらく劉秉忠は最初に内城と宮城を設計し、後になって大帝国の都にふさわしく拡大する際に外城を増設したと考えられているが、今後の考古学調査の結果が待たれる。現在は草原の中に宮城の各宮殿の基壇や、内城の東の城壁の一部などが残っている。

所在地は北が山、南が川の配置であるため、都市計画には漢人風水の影響があると言われる。また、上都は13世紀の仏教道教の大論争の舞台でもあり、その論争の結果、北東アジアチベット仏教が広がった[4]
外城

外城の城壁黄土を使った版築のみで築かれ、総延長17(一辺の長さ2.2キロメートル)で内城を北と西から囲むような曲尺形(L字型)をしており、城門は北に2箇所、西と南に1箇所ずつあった。外城の北の部分はすべて御苑になっておりクリルタイなどが開かれた。内城の隣にある外城西南部は、寺院道観や官庁、および市街地となっていた。
内城

内城(皇城)は上都の南東部を占め長方形をしており、一辺の長さは1.4キロメートルあった。北は御苑、西は外城、東と南は城外となっており、城門の外にも民家や倉庫が建っていた。城壁は版築の表面に切り石を組んで補強されており、城門は南北に1箇所ずつ、東西に2箇所ずつあり門の外側には防御用の甕城が備えられていた。

内部には碁盤目状の通りが走り、南側は官庁街や貴族らの邸宅、北は中央に宮城があり、その両側に龍光華厳寺・乾元寺・華厳寺・孔廟の四つの大寺院やアラブ人学者による天文台が造られていた。内城には大きな空き地が多く、貴族たちや将軍たちが大きなゲルを張ることができるようになっていた。
宮城

宮城は内城中央の南北軸上の北寄りにあり、面積は現在の北京の紫禁城の40 %ほどの大きさであった。


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