上遠野富之助
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かどの とみのすけ
上遠野 富之助
肖像写真
生誕1859年11月13日安政6年10月19日
出羽国横手城下(現・秋田県横手市
死没1928年昭和3年)5月26日・68歳没
名古屋市中区南久屋町
出身校東京専門学校
職業実業家名古屋市会議員
親上遠野群吾(実父)
上遠野実(養父)
親戚上遠野秀忠(実兄)
栄誉正六位勲四等
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上遠野 富之助(かどの とみのすけ、1859年11月13日安政6年10月19日〉 - 1928年昭和3年〉5月26日)は、明治から昭和初期にかけて活動した日本実業家政治家である。

秋田県出身ながら愛知県名古屋市に移り名古屋財界で立身、名古屋商業会議所会頭や名古屋鉄道社長を務めた。政界では名古屋市会議員・同議長を歴任した。
経歴
前半生

上遠野富之助は、安政6年10月19日(新暦:1859年11月13日)、出羽国横手城下(現・秋田県横手市)に久保田藩士上遠野群吾の次男として生まれた[1]。実家上遠野家は代々剣術槍術師範をつとめる家であり、実兄秀忠(幼名:馬之助)も剣術家となっている[2]。一方で富之助は生まれて5か月で実子のいない伯父・上遠野実の養子に引き取られた[3](養子だが戸籍上は豊の長男という扱い[1])。養父は久保田藩の儒学者で、初めは横手で暮らしたが藩校明徳館」で教えるべく久保田城下(現・秋田市)へと移り住んだ[3]

上遠野は明治維新後も旧藩校で学び、卒業後は頼まれて教職に就いた[3]1876年(明治9年)のことで、赴任先は新屋日新学校である[1]1878年(明治11年)1月からは同校の第3代校長を任されたが、翌1879年(明治12年)5月職を辞して東京へ出、漢学者岡松甕谷の門に入った[1]1881年(明治14年)に帰郷すると大久保鉄作率いる秋田改進党の機関紙「秋田日報」の記者となる[1]。しかし1883年(明治16年)夏に職を辞して再び上京、大隈重信東京専門学校早稲田大学の前身)に入学する[1]1886年(明治19年)に卒業した後は在学中から議事録作成を手伝っていた東京府会に職を得るが、8か月ほどで同じく在学中から手伝っていた報知新聞に移り再び新聞記者となった[4]
名古屋財界入り上遠野を名古屋に招いた奥田正香

報知新聞記者を続けていた上遠野だが、自伝によると1892年(明治25年)頃から転職を考えるようになったという[5]。そうした折、会社の矢野龍渓に呼び出され、上京中の奥田正香を紹介された[5]。奥田は味噌醤油製造で財を成して1893年(明治26年)より名古屋商業会議所(後の名古屋商工会議所)会頭と名古屋株式取引所理事長を兼ねた名古屋の大物実業家である[6]。上遠野は奥田のすすめで名古屋商業会議所に書記長として勤めることとなり、1893年7月、愛知県名古屋市へと移住した[5]

名古屋財界入りした上遠野は奥田の腹心、通称「四天王」の一人(他の3人は鈴木ハ兵衛兼松煕安東敏之)として活動し名古屋財界での地盤を築いた[7]。初期に上遠野が関係した会社は名古屋株式取引所と鉄道車両メーカーの日本車輌製造である。名古屋株式取引所では1897年(明治30年)1月理事に選出され、以後1908年(明治41年)1月まで11年にわたり在任した[8]。日本車輌製造においては、奥田の依頼で設立に向け目論見書を作成したことが関係の発端で、発起人や会社設立時(1896年)の役員にはならなかったが1897年7月常務取締役に選ばれ、複数社に関わり多忙な社長の奥田を支える立場となった[9]。一方で商業会議所書記長の職は1897年3月に退いたが[1]1901年(明治34年)5月に初めて同所の役員(工業副部長)に選ばれた[10]。商業会議所では1905年(明治38年)4月に工業部長へ異動したのち、1909年(明治42年)4月には副会頭に選ばれている[10]

1905年1月、上遠野は明治銀行の監査役に選ばれた[11]。明治銀行は奥田や名古屋の大地主初代神野金之助らが1896年に起こした銀行である[12]。銀行が日露戦争後の恐慌で経営不振に陥った1908年1月、上遠野は常務取締役に取り立てられ(当時の頭取は神野金之助)、業務の整理改善を任された[13]。翌1909年には神野や伊藤守松とともに渋沢栄一を団長とする「渡米実業団」に参加し、アメリカ合衆国各地を視察した[14][15]。帰国後の1910年(明治43年)10月、常務を務める日本車輌製造で奥田の後任として第2代社長に昇格する[16]。しかしながら業界不振と名古屋銀行関係者による株式買収のため8か月後の1911年(明治44年)6月に取締役社長を辞任し、同社との関係を断った[16]

上記会社の他には、名古屋の電力会社名古屋電灯1898年(明治31年)3月監査役に就任、1904年(明治37年)1月からは取締役に転じて1906年(明治39年)5月まで在任した[17]。電気事業では続いて奥田正香や兼松煕らが主導する名古屋電力の設立に参画、日本車輌製造を代表して発起人に加わり、1906年10月の会社設立とともに取締役兼営業部長に就いた[18]


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