上道斐太都
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 凡例上道斐太都
時代奈良時代
生誕不明
死没神護景雲元年9月23日767年10月20日
改名斐太都→正道
官位従四位下備前国造
主君孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇
氏族上道朝臣
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上道 斐太都(かみつみち の ひたつ)は、奈良時代貴族。名はのち正道。のち朝臣官位従四位下備前国造。
出自

上道氏(上道臣)は吉備氏の一族で、備前国上道郡を本拠とした豪族。上道国造家[1]
経歴

孝謙朝天平宝字元年(757年中衛舎人を務めていた際、橘奈良麻呂らによる皇太子・大炊王(のち淳仁天皇)や紫微内相藤原仲麻呂を殺害する謀反計画への参加を前備前守小野東人から勧誘されるが、逆に藤原仲麻呂に対してこの計画を密告する。結果、関係者は捕縛され、謀反は未然に防がれた(橘奈良麻呂の乱[2]。この功績によって、従八位上から一挙に15階昇進して従四位下・中衛少将に叙任され、元の姓から朝臣姓を賜与された。さらに同年末には功田20町を賜与されている[3]

のち、右兵衛督中宮大夫宮内大輔といった京官や、出身地方に近い播磨守・備前守・備中守備後守などの地方官を歴任、また、天平宝字6年(762年)には淳仁天皇の側近として勅旨の宣布・伝達を行うために中宮院に侍すなど[4]、仲麻呂政権下において地方豪族としては異例の抜擢を受けた。仲麻呂に接近することで昇進を図ったことについては、同じ吉備地方の豪族出身の下道真備(吉備真備)が朝廷で既に重用されていた[5]ことへの対抗意識によるものとも考えられる。なお、仲麻呂政権下では正道を名乗っている。

天平宝字8年(764年)正月に備後守に任ぜられ同国に赴任していたためか、同年8月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらない。翌天平神護元年(765年和気王謀反連座して粟田道麻呂が飛騨員外介に左遷されたのと同時に飛騨守に任ぜられる。以前より斐太都は道麻呂に恨みを抱いていたことから、任地に到着すると道麻呂夫婦を一郭に幽閉し、数ヶ月のち夫婦はその中で死亡した[6]。翌天平神護2年(766年)3月には早くも百済王利善が飛騨守に任ぜられていることから[7]、斐太都はそれまでに飛騨守を解任されたとみられる。

神護景雲元年(767年)9月23日卒去。最終官位は備前国造従四位下[8]
官歴

続日本紀』による。

時期不詳:従八位上中衛舎人

天平宝字元年(757年) 7月5日:従四位下(越階)、から朝臣に改姓。7月9日:中衛少将。閏8月8日:吉備国造

時期不詳:宮内大輔右勇士督播磨守

天平宝字3年(759年) 11月5日:備前守

天平宝字5年(761年)頃:見美濃守[9]

天平宝字7年(763年) 正月9日:中宮大夫備中守

天平宝字8年(764年) 正月21日:備後守

天平神護元年(765年) 8月1日:飛騨守

時期不詳:備前国造

神護景雲元年(767年) 9月23日:卒去(備前国造従四位下)

脚注^ 佐伯[1994: 163]
^ 『続日本紀』天平勝宝9歳7月2日条
^ 『続日本紀』天平宝字元年12月9日条
^ 『続日本紀』天平宝字6年8月11日条
^ 天平勝宝6年(754年)正四位下・大宰大弐に叙任。
^ 『続日本紀』天平神護元年8月1日条
^ 『続日本紀』天平神護2年3月26日条
^ 『続日本紀』神護景雲元年9月23日条
^ 『大日本古文書(編年文書)』15巻131頁

参考文献

宇治谷孟『続日本紀』 中、講談社学術文庫、1992年。 

鬼頭清明「上道斐太都」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。 

佐伯有清 編『日本古代氏族事典』雄山閣出版、1994年。 


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