この項目では、東日本旅客鉄道の鉄道路線について説明しています。その他の用法については「上越線 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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上越線
上越線を走行する211系
(2020年11月 上牧駅 - 水上駅間)
基本情報
通称上野東京ライン、湘南新宿ライン(高崎駅 - 新前橋駅間)[注釈 1]
上越新幹線(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)
国 日本
所在地群馬県、新潟県
種類普通鉄道(在来線・幹線)
起点高崎駅(本線)
越後湯沢駅(支線)
終点宮内駅(本線)
ガーラ湯沢駅(支線)
駅数36駅(ガーラ湯沢駅含む)
電報略号シヨセ[1]
開業1884年8月20日
全通1931年9月1日
所有者東日本旅客鉄道(JR東日本)
運営者東日本旅客鉄道(JR東日本)
日本貨物鉄道(JR貨物)
路線諸元
路線距離162.6 km(高崎駅 - 宮内駅間)
1.8 km(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)
軌間1,067 mm(高崎駅 - 宮内駅間)
1,435 mm(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)
線路数複線
電化区間全線
電化方式直流1,500 V・架空電車線方式(高崎駅 - 宮内駅間)
交流25,000 V・50 Hz・架空電車線方式(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)
閉塞方式自動閉塞式(本線)
車内信号式(支線)
保安装置ATS-P(高崎駅 - 石打駅間、六日町駅と浦佐駅構内)
ATS-SN(石打駅 - 宮内駅間)
DS-ATC(越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間)[2]
最高速度120 km/h(優等列車)
路線図
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上越線(じょうえつせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅までを結ぶ、東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
このほか、越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間の支線をもつ。この支線は上越新幹線の保線基地への引き込み線を利用した営業線で、同新幹線から列車が直通するが、法規上は新幹線ではなく在来線の扱い[注釈 2]であり、線路名称上も実施計画上も上越線の支線である。 高崎線の終着駅高崎駅より利根川沿いに群馬県内を北上し、三国山脈を越えて新潟県に入り、中越地方の魚野川・信濃川沿いに六日町盆地などを経て長岡市に至る鉄道路線。終点の宮内駅では信越本線に接続し、列車は長岡駅・新潟駅方面に乗り入れている。後閑駅 - 越後湯沢駅間を除き国道17号とほぼ並走する。 路線名の由来は、上野国(現在の群馬県)と越後国(現在の新潟県本土)を結ぶことに由来する。なお、新潟県には上越市やそれを含む上越地方があるが、上越の呼称の由来は異なり(詳しくは「上越」を参照)、上越線は上越市はおろか上越地方すら通らない。新潟県の上越線沿線地域は全域が中越地方に属する。 当線が開通する以前、関東と新潟県を結ぶ鉄道ルートは「高崎線・信越本線ルート」と「東北本線・磐越西線ルート」の二つがあった。しかし、いずれも関東と新潟を直線的に結ぶルートではないうえ、信越本線には碓氷峠の急峻な勾配があり時間的ロスを生じていた。こうした中、上越国境の茂倉岳直下を清水トンネルで越える短絡経路として、上越線が建設された。このうち、水上駅 - 石打駅間は最急勾配20 ‰で建設され、当初から電化された区間である。 1931年の開業当初、それまで上野駅 - 新潟駅間は信越本線経由の急行列車で11時間6分を要していたのが、新設された上越線経由の急行列車は7時間10分で結び、一挙に4時間の所要時間短縮が図られた。上越新幹線の開業後は首都圏と新潟との都市間輸送の役割を新幹線に譲り、全線を直通する旅客列車は夜行列車などわずかとなったが、首都圏と新潟・北陸・庄内・秋田方面とを結ぶ貨物列車が通る幹線という側面を持っており、今もなおその重責を担う。また、首都圏と青森・北海道方面とを結ぶルートとしても、奥羽本線の一部と田沢湖線がミニ新幹線化(標準軌化)され、東北本線盛岡駅以北がいわて銀河鉄道線・青い森鉄道線に転換されてからは高崎線・上越線・信越本線・羽越本線・奥羽本線ルートがJRのみを経由する唯一の幹線ルートであり、東北本線不通時の長距離列車・貨物列車の唯一の迂回路としての機能も担っている。 高崎駅 - 水上駅間が旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「東京近郊区間」に、小千谷駅 - 宮内駅間が「新潟近郊区間」に含まれる。当線の東京近郊区間はIC乗車カード「Suica」の首都圏エリアとなっており、同様に新潟近郊区間の内、小千谷駅と宮内駅がSuicaの新潟エリアとなっている(小千谷駅は一部サービス対応駅。途中の越後滝谷駅についてはエリア外)。このほか、支線の越後湯沢駅 - ガーラ湯沢駅間は「タッチでGo!新幹線」のサービスエリアに含まれ、利用開始登録済のICカードで乗車可能である[3]。 ラインカラーは高崎支社管内、新潟支社管内ともに水色。ただし2002年ごろまで新潟支社管内ではオレンジ色をラインカラーとして用いていた。 キロポストは高崎線からの数字を受け継いでおり、大宮駅からの距離の表示となっている。ちなみに大宮駅の高崎線ホーム上の案内(一部除く)は、「高崎線・上越線」と表記されている(他の高崎線単独駅に「上越線」の案内はない。かつては運転系統上の高崎線や上越線を経由する特急・急行の始発駅である上野駅でも見られたが、上野東京ライン開通時にほとんど消されている)。 明治維新の後、富国強兵や殖産興業のために、当時主流だった海運と並ぶ陸上での大量輸送機関である鉄道の整備が求められ、1869年(明治2年)11月に鉄道建設が廟議決定されると、各地で鉄道に関する議論や運動が盛んになった。1872年(明治5年)10月に日本の鉄道が開業すると、華族組合による鉄道の経営を考えていた蜂須賀茂韶が工部卿に送った書簡の中で、「東京ヨリ奥州青森ニ至リ或ハ東京ヨリ越後新潟ニ至ル等ノ地ニ鉄路蒸気汽車ヲ設ケ…」[4]として、東京から開港地である新潟へ鉄道を敷く計画を示す。1874年(明治7年)には中山道幹線建設のためにルート調査に当たっていたリチャード・ヴィカルス・ボイル(Richard Vicars Boyles)の部下の建築師ウィリアム・ゴールウェー(William Galway)と助手のクロード・ウィリアム・キンダー(Claude William Kinder)によって三国峠の偵察が行われる。1881年(明治14年)に日本鉄道が設立されると、これに接続する鉄道の事業計画が新潟県刈羽郡横沢村の山口権三郎によって作られた(後の北越鉄道)。 1884年(明治17年)5月に日本鉄道が高崎まで開通すると、1887年(明治20年)5月に新潟県南魚沼郡下一日市村の岡村貢が「上越鉄道創設趣意書」を作成し、それを元に前橋の高橋周驕A東京の岡村良朗らと上越直線鉄道会社設立事務所を開設し、敷設運動を開始(1888年1月に上越鉄道会社と改称)[5]。各地で鉄道大会を開き、同士を募って気運を高めた。鉄道技師の佐分利一嗣によってルートが検討され、実地調査が行われた。1889年(明治22年)3月には第一次私鉄ブームの企業勃興
概要
歴史上越線を走行した主な列車については「上越線優等列車沿革」を、吾妻線へ直通する優等列車については「草津・四万#吾妻線優等列車沿革」を参照
1892年(明治25年)6月21日に鉄道敷設法が公布されると、第一期予定線として「新潟県下直江津又ハ群馬県下前橋若ハ長野県下豊野ヨリ新潟県下新潟及新発田ニ至ル鉄道」が示され、これが法律によって上越線が認められた起源となる[5]。1893年(明治26年)2月の鉄道会議で、上越線(前橋 - 新潟)、直江津延長線(直江津 - 新潟)、豊野線(豊野 - 新潟)の方針について議論が行われた[7]。ここでは23名の出席者のうち、直江津延長線に賛成の者15名、豊野線に賛成の者8名となり、直江津案に決まった。1894年(明治27年)3月の第3回衆議院議員総選挙に新潟7区から立憲改進党として立候補して当選した岡村は、高津仲次郎や湯浅治郎らと糾合して「予定鉄道線路中私設鉄道会社ニ敷設許可ニ関スル法律」の修正案を提出し、国政の場で上越線の重要性を訴えたが、産業発達の誘導や、貨物運輸に便が多いことが認められつつも、技術的に困難であることや、降雪地帯であること、建設費の高さなどが取り沙汰された結果、8票差で否決された[5]。一方で、帝国陸軍の川上操六(鉄道会議議長)は衛戍地である新発田を通る上越線に着目、同計画を進める意見を主張し、岡村や湯浅らも賛成したが、採決の結果、否決された。同年6月に「鉄道比較線路決定ニ関スル法律」(明治27年法律第7号)が公布され、予定線は直江津線(現在の信越本線)となり、上越線は計画から除外された[5]。
官製による敷設が見込めないという結論に至った岡本らは、民間で鉄道を敷設すべく、1894年(明治27年)に毛越鉄道株式会社を発起、1895年(明治28年)6月に上越鉄道会社に改名し、前橋 - 長岡の鉄道敷設免許を申請するが認められなかった。資金を調達するため、会社を株式会社(上越鉄道株式会社創立事務所)に改め、ルート上最も困難と目されていた県境部分のより詳細な測量を行い、報告書を作成した。こういった運動や陳情が実を結び、1896年(明治29年)7月についに敷設の仮免許が下付された。しかし、日清戦争の勝利によって物価が急騰し、500万円を予定していた資本金が3倍の1,500万円を要する事態となった。毛越鉄道では当初、前橋 - 沼田 - 谷川 - 湯沢 - 六日町 - 小千谷 - 長岡を経て新津 - 新発田という計画だったが、その後、長岡以北は計画の重複する北越鉄道に譲っており、経済界ではこれを有利な路線ではないと見て、融資に消極的な姿勢が広がり、資金の調達は難航した[8]。