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をお願いします。(2019年6月)上赤塚交番襲撃事件
襲撃された上赤塚交番(2009年撮影)
場所東京都板橋区赤塚三丁目
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分54.9秒 東経139度38分16.4秒 / 北緯35.781917度 東経139.637889度 / 35.781917; 139.637889座標: 北緯35度46分54.9秒 東経139度38分16.4秒 / 北緯35.781917度 東経139.637889度 / 35.781917; 139.637889
標的警察官
日付1970年(昭和45年)12月18日
午前1時30分頃 (日本標準時)
攻撃側人数3
武器ナイフ、鉛棒入りゴムホース
死亡者1(犯人)
犯人日本共産党(革命左派)神奈川県委員会
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上赤塚交番襲撃事件(かみあかつかこうばんしゅうげきじけん)は、1970年(昭和45年)12月18日に東京都板橋区赤塚三丁目、志村警察署[注釈 1]上赤塚交番が3人組の男に襲撃された事件[1]。
犯人グループは京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)のメンバーで、一人は警察官に射殺された。日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。 前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪は、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃による銃の奪取が計画された。武器はビニールホース入り鉛パイプ、切り出し小刀、千枚通しが用意された。 12月18日の午前1時ごろ、革命左派の柴野春彦(横浜国立大学生)、渡辺正則(横浜国立大学生)、佐藤隆信(神奈川県立川崎高等学校生)が、交番に駐在する警察官の拳銃奪取を目的に上赤塚交番を訪れた。3人は「自動車が故障したので、迎えがくるまで待たせて欲しいと」応対した巡査に話しかけるとビニールホースに仕込んだ鉛の棒を振りかざして顔面をめった打ちにした。奥の休憩室に居た巡査長が物音に気付いて休憩室のドアを開けると柴野と鉢合わせた[2]。柴野が拳銃を納めていた保管箱に手を伸ばしたため、巡査長は柴野を部屋から蹴落とし、なおも刃物を持って向かってくる柴野に向けて警告のうえ拳銃を2発発射。更に巡査長は、馬乗りになって巡査に凶器を打ちつけている2人に向けても警告のうえ脚を狙って計3発発射した。柴野春彦が死亡、他2名も重傷を負ってその場で現行犯逮捕された。巡査の拳銃からも弾が1発発射されていたが、当人に撃った自覚はなく、乱闘中に暴発したものと考えられる[3]。 警察官からの銃奪取に失敗した革命左派は、交番の代わりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。
概要
その他
柴野を射殺した巡査長は、前年の5月14日にも同交番で勤務中に道案内を求めてきた男に突然ナイフで切り付けられていた。このときは警棒で制圧したが、左腕を負傷している[3]。
渡辺正則は愛知揆一外相の米国訪問阻止闘争での逮捕歴があり、佐藤隆信も三里塚闘争で一度逮捕されるが、手錠をつけられたまま逃走していた[3]。
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}革命左派の獄外指導部は、護送車襲撃については川島豪の確実な奪還のために綿密に計画を立てていたが、銃奪取のための交番襲撃については楽観視しており、計画らしい計画も立てないまま交番襲撃は決行された[要出典]。
事件後にはメンバーの祥月命日である18日前後に警察署・交番・独身寮など警察機関に対する爆破テロが繰り返されており、新左翼の過激派による柴野射殺の報復とされた[3]。