上西弘次
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うえにし こうじ
上西 弘次
生年月日 (1938-11-24)
1938年11月24日
没年月日不詳年
出生地 日本 長崎県
職業俳優殺陣師
主な作品


ウルトラセブン

スペクトルマン

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上西 弘次(うえにし こうじ、1938年11月24日[1] - 没年不詳)は、日本の俳優および殺陣師長崎県出身[1]

剣道の有段者で、殺陣師の久世竜に師事し、三船プロダクションの殺陣師として数多くの映画・テレビ作品に関わる。その後、プロデューサー業に転向し、テレビCMなどを制作。企画会社を設立する。
経歴・エピソード

少年時代は海に潜り手製の銛で魚を突いて獲るなど、優れた運動神経を生かして学生時代はスキー野球馬術など、スポーツの才能を開花させた。将来はパイロットプロ野球選手になることを夢見ていたという[1]

1955年、父親が東映の殺陣師だった関係から当時の人気俳優・明智十三郎に呼ばれ上京。演技を学ぶ傍ら、映画監督・丸根賛太郎書生を務めていた。本人は俳優より監督志望だったため「監督直下の書生になれば自分もすぐ映画監督になれる」と考えていたが、丸根から「役者をやってみたらどうだ」と言われ、映画『快傑修羅王』で俳優としてデビュー。

当初はフリーランスで活動していたが、久世竜の門下となって東宝七曜会に入会する。その後、三船プロダクションが発足するとそのまま同プロに移行し、久世七曜会のメンバーとなる(久世浩薩摩剣八郎は後輩にあたる)。

1967年、『ウルトラセブン』のスーツアクターを担当。『ウルトラセブン』への起用は製作者側の殺陣を重視したヒーローにしたいということからであった[2]。前作『ウルトラマン』のスーツアクターを担当し、『ウルトラセブン』でアマギ隊員役で出演した古谷敏は、時代劇などの撮影で、上西が東宝スタジオによく出入りしていたこともあり面識があった[3]

『ウルトラセブン』への出演を依頼された時は「自分の顔が出ない」ということで乗り気ではなかったが、勉強のつもりで引き受けたという。とはいえ、ウルトラマンの戦闘スタイルを研究した上でそれとは違うセブン独自のスタイルを築くなど、役作りには積極的に取り組んでいた。ある時ウルトラセブンの姿で身障児施設に慰問に行った際に、1人の少年が自分の元へ駆け寄ってきた。後にその少年がそれまで歩くことはおろか、立つことさえ出来なかったと聞いてヒーローの影響力の大きさに気付き、それ以来スーツアクターという仕事への偏見がなくなったという。

『セブン』終了後の約1年間は、円谷エンタープライズ所属の俳優として活動していた。この時期の特撮ものの仕事としては、『戦え! マイティジャック』第22話の巨大ロボット「ビッグQ」が挙げられる。

1971年放送の『宇宙猿人ゴリ』では、スペクトルマンとゴリの部下・ラーのスーツアクターを担当。またラーに関しては吹き替えも兼任した。この他にも特撮パート(本編パートのスペクトルマン登場シーン含む)の殺陣師・役者のキャスティングも担当しており、本作の関わりは深い。上西はこれ以前に同作のパイロット版でも、スペクトルマン(素顔の一部が露出するマスクは上西の発案によるもの[4])とゴリ(テレビシリーズではラーに変更し、着ぐるみを流用)のスーツアクターを兼任した。上西は「役者としては、スペクトルマンよりも、ラーの方に愛着がありますね」と語っていた[5]

『宇宙猿人ゴリ』放送前のインタビューで、スペクトルマンを演じることに関しては「俳優として仮面を着けて演じることには抵抗がある」としながらも「ウルトラセブンのイベントで各地を回った際に、子供達が夢中で追いかけて来る姿が忘れられなくてスペクトルマンを演じることにしました」と語っている[6]。『宇宙猿人ゴリ』で相棒のゴリ博士のスーツアクターを担当した遠矢孝信は、上西がリハーサルと本番では違う動きをするため「回を重ねてくるとお互いに乗ってくるようになり楽しかった」と述べている[7]。また、同作で初代公害Gメンとして出演していた小西まち子は、上西の印象について「明るくていつも現場を盛り上げて、チームのまとめ役という印象がありましたね」と述べている[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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