上総介広常
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 凡例上総 広常
歌川芳虎
時代平安時代末期
死没寿永2年12月20日1184年2月3日
別名介八郎、平広常、弘常[1]
墓所横浜市金沢区朝比奈町の五輪塔?
官位上総権介
氏族桓武平氏良文流、房総平氏上総氏
父母父:平(上総)常澄
兄弟伊西常景印東常茂匝瑳常成佐是円阿
大椎惟常埴生常益天羽秀常、広常、
相馬常清、臼井親常、時田為常、金田頼次
能常平時家室、小笠原長清室、良岑高成
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上総 広常(かずさ ひろつね、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:上總 廣常)は、平安時代末期の武将豪族上総氏。上総権介平常澄の八男(嫡男)。上総 介広常(かずさのすけひろつね、旧字体:上總 介廣常)の呼称が広く用いられるが、上総介は官位であり、本名は平 広常(たいら の ひろつね)である。

房総平氏惣領家頭首であり、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに臨んだ。
生涯

生年は不明。通称は「介八郎」といったことから八男だったとされる[2]。父の常澄は確実な史料には「前権介」としかみえないが、諸系図には「上総介」とみえる[2]。12世紀末、上総国の公領・庄園は上総氏がそのほとんどを所領化しており、広常はかかる一族の家督、惣領として、かつ上総国衙最有力在庁たる「権介」として、ほぼ一国規模で封建的軍事体制を確立しつつあった[3]
平治の乱・家督争い

広常は、鎌倉を本拠とする源義朝の郎党であった。保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍、義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。

義朝が敗れた後は平家に従ったが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景常茂との間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の抗争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。

治承3年(1179年)11月、平家の有力家人伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。

頼朝の挙兵時の広常(および又従兄弟の千葉常胤)の参陣・挙兵は、行き詰まった在地状況を打開するための主体的な行動であり、平家との関係を絶ち切り、実力によって両総平氏の族長としての地位を確立した[2]
源頼朝挙兵

治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は隅田川辺に布陣する頼朝のもとに2万騎を率いて参上した。頼朝は大軍を率いた広常の参向を喜ぶどころか、逆に遅参を咎めたので、その器量に感じて頼朝に和順したとされる[4]。なお『吾妻鏡』には2万騎とあるが『延慶本平家物語』では1万騎、『源平闘諍録』では1千騎である[5]

だが、野口実は『吾妻鏡』の広常に関する記述を詳細に分析した結果、広常は当初から頼朝側だったと結論付けている。頼朝挙兵以前に頼朝からの使者に対する広常の返答は早速の了承であり、ただ船の都合で8月下旬までの参向は無理としている[6]。このことから9月19日、隅田川辺での頼朝への参向、これは広常による平家方勢力の掃討を意味しているのであり[2]。頼朝への参向は上総ないし上総国府と考えるのが妥当である[2]呉座勇一も広常が初めから頼朝側であったからこそ、頼朝が何事もなく安房から上総を経由して下総に向かえたとし、広常が率いたとされる大軍も上総国内から平家側勢力を一掃したことによって動員が可能になったものとして、野口の見解を肯定している[7]

同年11月の富士川の戦いでは、平維盛を大将とする頼朝追討軍に従事していた兄・印東常茂を討ち果たした。これにより房総平氏は広常の許で統一されることとなった。

富士川の戦いでの勝利後は、上洛を目指す頼朝に対し、常陸源氏佐竹氏討伐を主張した。広常はその佐竹氏とも姻戚関係があり、佐竹義政秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐには参上できない」と言って金砂城に引きこもる。兄の義政はやってきたが、互いに家人を退けて2人だけで話そうと橋の上に義政を呼び、そこで広常は義政を殺す。その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め、これを敗走させる(金砂城の戦い)。

『吾妻鏡』治承5年(1181年)6月19日条では、頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵力を有する広常は無礼な振る舞いが多く、頼朝に対して「公私共に三代の間、いまだその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、また他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったこともあると書かれる。ただし、『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編纂であり、どこまで正確なものかは不明である。
誅殺広常の願文(玉前神社)

寿永元年(1182年)になると頼朝との対立が激しくなったとされているが、対立が激しかったのは寿永元年以前であり、寿永元年になるとむしろ両者の関係は改善されたとする指摘がある[8]

寿永2年(1183年)12月、謀反の企てがあるとの噂から頼朝に疑われた広常は、頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時に鎌倉の御所内で暗殺された。景時と双六に興じていた最中、景時は突然盤をとびこえて広常の首を掻い切ったとされる(『愚管抄』)[9]。嫡男・上総能常も同じく討たれ、上総氏は所領を没収され千葉氏三浦氏などに分配された。寿永3年(1184年)正月、広常の鎧から願文が見つかったが、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文書であったので、頼朝は広常を殺したことを後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族を赦免したとされる。


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