上磯郡(かみいそぐん)は、北海道(渡島国)渡島総合振興局の郡。
人口7,478人、面積418.62km²、人口密度17.9人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の2町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、木古内町および北斗市の一部(追分、久根別、中野通、清川、野崎、戸切地以南)を加えた区域にあたる。知内町は明治14年(1881年)に福島郡から編入された区域である。 室町時代までに道南十二館のうち中野館・茂別館が築かれていた。茂別館は応仁の乱のちょうど10年前の1457年(康正3年、長禄元年)に起きたコシャマインの戦いの際も、落城しなかった館のひとつである。七重浜では松前藩祖・武田信広公がコシャマイン親子を討取り、その後戦いは散発したものの蜂起は平定された。 上磯郡は当初松前藩領とされていたが、江戸時代後期の文化4年、上磯郡域を含む渡島国域が天領とされた。文政4年いったん松前藩領となり、安政元年には野崎に戸切地陣屋が築かれたが、安政2年、上磯郡域は再び天領とされ松前藩が警固を行った。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して上磯郡が置かれた。
知内町(しりうちちょう)
木古内町(きこないちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の上磯郡の町村(7.上磯村 8.木古内村 9.茂別村 10.知内村 桃:北斗市 青:区域が発足時と同じ町村)
明治2年8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、渡島国および上磯郡が設置される。開拓使が管轄。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第13大区
1小区 : 木古内村、瓜谷村、札苅村、泉沢村、釜谷村、三ツ石村、当別村、茂辺地村
2小区 : 富川村、三好村、吉田村、三谷村、戸切地村、有川村、中野村、濁川村、清水村
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての上磯郡が発足。同年有川村と戸切地村が合併し上磯村、三谷(みつや)村と三好村が合併し谷好村が成立、瓜谷村が木古内村に編入。
明治13年(1880年)1月 - 亀田上磯郡役所の管轄となる。
明治14年(1881年) - 福島郡知内村・小谷石村(福島村より分村)の所属郡が本郡に変更。当別村と三ツ石村が合併し石別村が、清水村と濁川村が合併し清川村がそれぞれ成立。吉田村が上磯村に編入。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により函館県の管轄となる。
明治19年(1886年)
1月26日 - 廃県置庁により北海道庁函館支庁の管轄となる。
12月 - 函館支庁が廃止。
明治21年(1888年)3月 - 亀田郡外三郡役所(亀田上磯茅部山越郡役所)の管轄となる。
明治30年(1897年)11月5日 - 郡役所が廃止され、亀田支庁の管轄となる。
明治32年(1899年)10月1日 - 亀田支庁が移転・改称して函館支庁となる。