上田重安
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 凡例上田重安 / 上田宗箇
時代安土桃山時代 - 江戸時代
生誕永禄6年(1563年
死没慶安3年5月1日1650年5月30日
改名龜丸[1](幼名)、小笠原重安 → 上田重安 → 豊臣重安 → 宗箇(号)→ 上田重安
別名通称:左太郎[1]、号:宗箇(宗固)
官位従五位下主水正
主君丹羽長秀長重豊臣秀吉秀頼→浪人(蜂須賀家政)→浅野幸長長晟
紀州藩士→芸州藩
氏族上田氏小笠原氏)、豊臣氏
父母父:上田重元(小笠原重元)
妻正室:杉原長房の娘
重秀、重政、女(浅野伊豆守室)、女(弓削壱岐守室)、女(中根平左衛門室)
養子:可勝[2]
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上田 重安(うえだ しげやす)は、安土桃山時代武将大名江戸時代前期の浅野家家老通称は左太郎、主水正。関ヶ原の後に剃髪して宗箇と名乗ったので、上田 宗箇(うえだ そうこ)の名でも知られる。

茶道千利休ついで古田織部に学び、上田宗箇流の流祖となって、茶人造園家としても業績を残した。また数々の戦で一番槍の功を立てた歴戦の武将でもあった。
経歴

永禄6年(1563年)、上田重元の子として生まれた。尾張国愛知郡星崎村(愛知県名古屋市南区星崎)の出身[3]。同家はもともとは小笠原姓を名乗り、重安の代で、上田と改めたという[1]

祖父・重氏の代から3代に渡って丹羽長秀の家臣で、元服後は丹羽氏の家臣として各地を転戦。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こると、長秀と神戸信孝明智光秀への関与を疑われた津田信澄の駐屯していた大坂城千貫櫓を攻撃し、重安が津田信澄の首を挙げた。

天正13年(1585年)に長秀が死去すると、その子・丹羽長重豊臣秀吉によって減封され、家臣団の多くが解雇され、一部は豊臣氏の直参として召し上げられた。この際に重安もまた秀吉の直臣となって、越前国内で1万石を与えられて大名となった[4]

天正14年(1586年)、京都の方広寺大仏殿(京の大仏)の工事を分担[4]。同15年(1587年)の九州の役に従軍。同18年(1590年)の小田原の役では、秀吉の本陣・脇備えで300騎を率いた。文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に駐屯[4]。秀吉の本陣前備衆のうちで200名を率いたが、渡海していない。

文禄3年7月29日1594年9月13日)、従五位下・主水正に叙任され、豊臣姓を賜る[1][4][5][6][8]

慶長3年(1598年)、秀吉の死により遺物・直家の刀を受領した[4]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍に与し、大坂甲津口を警備して後、北国口の防備へ移動し、東軍の前田利長の押さえとして、旧主・丹羽長重の籠もる加賀小松城に駐屯した。敗戦後、領地を没収されて摂津国に流遇し、剃髪した。
関ヶ原の役以後上田重安が樫井の戦いで着用したと伝わる甲冑(菖蒲韋威腰取仏胴具足、厳島神社所蔵)[9]の図(所信文『厳島名所しるべ』より)。

蜂須賀家政に強く請われその客将となり、阿波国徳島に移り住んだ。この間に家政の依頼で徳島城表御殿庭園を作庭している。


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