上田清司
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奈良県大和郡山市長の「上田清」とは別人です。
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出典検索?: "上田清司" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年1月)

日本政治家上田 清司うえだ きよし
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1948-05-15) 1948年5月15日(76歳)
出生地 日本 福岡県福岡市
出身校法政大学法学部法律学科
早稲田大学大学院政治学研究科修士課程
前職建設大学校非常勤講師
所属政党(新自由クラブ→)
自由民主党→ )
新生党→)
新進党→)
フロム・ファイブ→)
民政党→)
民主党→)
無所属/無会派→国民民主党新緑風会→無会派
称号法学士(法政大学)
政治学修士(早稲田大学)
公式サイト ⇒上田きよし
参議院議員
選挙区埼玉県選挙区
当選回数2回
在任期間2019年10月29日 - 現職
第57代 - 第60代(公選制第16代 - 第19代)埼玉県知事
当選回数4回
在任期間2003年8月31日 - 2019年8月30日
衆議院議員
選挙区(旧埼玉5区→)
埼玉4区
当選回数3回
在任期間1993年7月19日 - 2003年8月13日
その他の職歴
第12代 全国知事会会長
2018年4月17日[1] - 2019年8月30日[1]
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上田 清司(うえだ きよし、1948年昭和23年〉5月15日 - )は、日本政治家参議院議員(2期)。

衆議院議員(3期)、埼玉県知事(第57・58・59・60代)、全国知事会会長(第12代)を歴任した。
来歴

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出典検索?: "上田清司" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2015年11月)

福岡市生まれ、大牟田市育ち。福岡県立三池高等学校法政大学法学部法律学科卒業。大学では当初旧司法試験合格をめざしたが、断念[要出典]。後、法政大学弁論部に所属。大学卒業後は早稲田大学大学院政治学研究科へ進学。大学院在学中に埼玉県所沢市で学習塾「向陽塾」を開業。また、これも大学院在学中の1976年(昭和51年)、新自由クラブの立党に参画する。1977年(昭和52年)、早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。その後1979年(昭和54年)から1986年(昭和61年)まで建設大学校(現・国土交通大学校)の非常勤講師を務める[注釈 1]
衆院選・新人候補時代?初当選から3期10年在職期間

1980年(昭和55年)、第36回衆議院議員総選挙新自由クラブ公認で旧埼玉県第5区から立候補するが、落選する。以後、旧5区で4度の落選を経験する。新自由クラブ解党後は自由民主党に入党し渡辺美智雄が会長就任した中曽根派政策スタッフとなり1989年10月保守系無所属徳田虎雄をリーダーとする政策集団自由連合旗揚げ参加。


1993年(平成5年)に自民党を離党し、結党されたばかりの新生党の公認を受けて第40回衆議院議員総選挙に立候補し、5度目の立候補で初当選をトップで果たした。この旧5区では、のちに民主党で活動をともにする枝野幸男日本新党公認・新党さきがけ推薦で初当選している。また、旧5区の飛び地区域(現在の埼玉県第4区の区域にあたる)を地盤とする史上唯一の議員となった。翌1994年(平成6年)、新生党解党により新進党結党に参加する。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には新4区から同党公認で出馬し、自民党の早川忠孝を破り再選する。

1997年(平成9年)、同年末の新進党解党に先駆けて、細川護煕元首相を含む5人で新進党を離党し、細川を党首にフロム・ファイブを結党する。翌1998年(平成10年)、国民の声太陽党、フロム・ファイブの3党が合併し民政党が結成され、民政党の旧民主党への合流により、民主党が結党された。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙には民主党公認で出馬し、自民党の早川忠孝を再度下し、3選。
埼玉県知事

土屋義彦の辞職に伴って2003年(平成15年)8月に行われた埼玉県知事選挙に無所属での立候補を表明し、衆議院議員を辞職する。自民党県連が推薦する候補者など7人を破り、当選した。

2007年(平成19年)8月の埼玉県知事選で、吉川春子らを破り、再選。

2011年(平成23年)、全国知事会会長選挙に立候補したが、京都府知事山田啓二に敗れた[2]

同年7月の埼玉県知事選で、埼玉県労働者福祉共済会(埼労共)理事長の原冨悟らを破り3選を果たしたが、投票率は全国の都道府県知事選挙の中で史上最低の24.89%であった[3][4][5]

2015年(平成27年)、同年8月の埼玉県知事選で、元総務省消防庁審議官の塚田桂祐らを破り、4選を果たした。なお、自身で1期目の2004年(平成16年)に施行した、4期以上の知事連続立候補を辞める「多選自粛条例」を自ら破る形での立候補であった[6]。上田は言行不一致の理由について「若気の至りというか、思い上がりだった」と述べている[7]

2017年(平成29年)8月、2019年夏に任期満了に伴う、次期知事選挙に不出馬の意向を表明したが[8]、この時は前回の知事選挙の一件もあり、不確実的な発言と見られていた。

2018年(平成30年)4月17日、全国知事会会長に選任された[9]。埼玉県議会の多数派(51議席)を自由民主党が握っており、多選自粛条例を自ら破ってからは、旧民主党系(9議席)が支持基盤の上田との対立が顕著になっていた。

2019年6月13日、任期満了を以って知事を退任する意向を示し[10]、6月15日の会見で「任期満了(8月30日)をもって、知事の仕事を終了させていただく。やり残したことはない」と述べ、知事選に立候補しないことを正式に表明した[11]。同年8月執行の埼玉県知事選挙において、参議院議員を辞職して自らの事実上の後継候補として立候補した大野元裕の応援団長を務め、「上田県政の継承と発展」を掲げた大野を埼玉県知事に当選させる一翼を担った[12][13]
国政復帰

2019年9月13日、埼玉県知事選挙で初当選した大野の議員辞職に伴う参議院埼玉県選挙区補欠選挙への立候補の意向が報道され[14]、9月20日に無所属で立候補することを正式に表明。この選挙で上田は自身がかつて所属した民主党の流れを汲む立憲民主党国民民主党の県組織から支援を受けたが、自由民主党も上田が憲法改正に前向きなことから候補者の擁立を見送り、出陣式には与野党の国会議員が出席する相乗りの構図となった[15]。10月27日の投開票の結果、NHKから国民を守る党党首の立花孝志(立候補に伴い、比例代表選出であった参議院議員を退職(自動失職))を破り当選。29日に埼玉県選挙管理委員会による当選の告示がなされ[16]、同日付で参議院議員となり、16年振りの国政復帰を果たした。当選後、上田は当面は無所属で活動する考えを示した[17]

同年末から立憲民主党・国民民主党の両党が合流に向けた協議を始めたが、これに対して上田は「合流したら何人かあふれるので受け皿をつくることを考えないといけないのかな」と述べた[18]2020年9月には両党が合流し(新)立憲民主党を結成。一方、国民民主党の合流不参加者は(新)国民民主党を結成し、10月9日に上田は国民民主党の会派に入会した[19]

2021年8月には新党結成を模索していると報じられ[20]、8月11日に上田が国会内で開いた会合には前回衆院選旧希望の党から立候補し、現在は無所属の笠浩史吉良州司柿沢未途井上一徳各衆議院議員が出席した[21]。しかし、10月12日には政党要件の基準となる5人の国会議員が集まらなかったとして同月に予定される第49回衆議院議員総選挙前の新党結成を断念したと発表した。上田によれば元国会議員など24人の候補者を集めたが、現職議員は1、2名しか参加の意向を示さず、水面下で国民民主党や新党「ファーストの会」とも協議していたが、これも不調に終わり撤退を判断した[22][23][24]

2022年7月10日投開票の第26回参議院議員通常選挙においては、国民民主党推薦の無所属で立候補し、15人中2位の得票で2選[25]


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