この項目では、楽器について説明しています。その他の用法については「尺八 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
尺八の前面(左)と背面(右)
尺八(しゃくはち)は日本の木管楽器の一種である。リードのないエアリード楽器に分類される。中国の唐を起源とし、日本に伝来したが、その後空白期間を経て、鎌倉時代から江戸時代頃に現在の形の祖形が成立した。
名称は、標準の管長が一尺八寸(約54.5cm)であることに由来する[1]。語源に関する有力な説は、『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、7世紀はじめの唐の楽人である呂才が、筒音を十二律にあわせた縦笛を作った際、中国の標準音の黄鐘(日本の十二律では壱越:西洋音階のD)の音を出すものが一尺八寸であったためと伝えられている[2]。演奏者のあいだでは単に竹とも呼ばれる。英語ではshakuhachiあるいは、Bamboo Fluteとも呼ばれる。
真竹の根元を使い、7個の竹の節を含むようにして作るものが一般的である。上部の歌口に息を吹きつけて音を出す。一般的に手孔は前面に4つ、背面に1つある。
尺八に似た楽器として、西洋のフルートや南米のケーナがある。これらは、フィップル(ブロック)を持たないエアリード楽器である。 尺八の起源として有力な説は、前述した『旧唐書』列伝の「呂才伝」の記事によるもので、唐初期の貞観年間(627年 - 649年)に呂才(600年 - 665年)が考案したというものである[3]。 日本には雅楽楽器として、7世紀末から8世紀はじめに伝来した。東大寺の正倉院には六孔三節の尺八[4][5][6][7][8]が八管収められている[3]。 その後中国では、歌口の傾斜が管の外側にあるタイプの縦笛は断絶し[1]、日本でも雅楽の楽器としての尺八は使われなくなった。 歴史上の空白期間ののち、鎌倉時代になると一節切と呼ばれる縦笛があらわれた。これは、五孔一節で真竹の中間部を用いたものである。また、この一節切は武士の嗜みの一つとして大いに武家社会で流行し、北条幻庵などもその名手の一人として知られ、所蔵の一節切が残っている。田楽法師などの遊芸人の中にこれを吹いて物乞いをする集団が現れた。薦僧と呼ばれる集団がそれで、後に普化宗と結びつき虚無僧となっていく。 一節切は、室町時代に中国から日本に渡った禅僧・蘆安がもたらしたもので、名手といわれた大森宗勲(1570年 - 1625年)が出たのち、急速に広まった[9]。一節切は17世紀後半に全盛を迎えたが、その後急速に衰退した。 江戸時代には、尺八は法器(楽器というよりも法具の意味合い)として普化宗に属する虚無僧のみが演奏するものとされ、それを幕府の法度によって保障されていた。建前上は一般の者は吹いてはならなかったが、実際には尺八をたしなむ者はいた。明治時代以降には、普化宗が廃止されたことにより虚無僧以外の者も演奏するようになった。 普化宗は政府により1871年に解体され、虚無僧は尺八の師匠などに転じた。普化宗廃止後の尺八界の混乱期に活躍した人物に2代 荒木古童(竹翁、1823-1908)がいる[10]。荒木は虚無僧修行中に琴古流豊田古童
目次
1 歴史
1.1 起源と雅楽尺八
1.2 一節切と薦僧の時代
1.3 普化尺八
1.4 普化宗の廃止から新日本音楽まで
1.5 現代音楽と尺八
2 音程の範囲と基本的な音階
3 楽器の構造
3.1 物理的構造
3.2 筒音
4 奏法
5 尺八の流派と吹奏人口
5.1 明暗諸流派
5.2 琴古流
5.3 都山流
5.4 上田流
5.5 竹保流
5.6 その他の古典系流派
5.7 廃絶した流派
5.8 民謡系尺八
6 楽曲
6.1 本曲
6.1.1 普化宗の本曲
6.1.2 琴古流本曲
6.1.3 都山流本曲
6.1.4 上田流本曲
6.1.5 竹保流本曲
6.2 三曲合奏
6.3 民謡尺八
6.4 現代音楽と尺八
6.5 現代邦楽
6.6 ポピュラー音楽と尺八
7 製管
8 尺八の割れや虫害
9 脚注
10 参考文献
11 関連項目
12 外部リンク
歴史 尺八根本道場、京都明暗寺
起源と雅楽尺八
一節切と薦僧の時代
普化尺八が望まれています。
普化宗の廃止から新日本音楽までが望まれています。
関西では、琴、三味線との合奏である三曲合奏(外曲とも称す)の先駆と言われる近藤宗悦(1821?1867)の宗悦流(現存せず)の中から初世中尾都山が1896年に大阪で都山流を創始した[10]。中尾は独自の工夫新作により自流の曲目を増やし、記譜法、教授法、合奏形式などにも新機軸を打ち出し、近代的な家元制度を整えて短年月のうちに西日本で門弟を増やし、琴古流に並ぶ尺八界の二大流派のひとつに育てた[13]。
1920年代には、箏曲家の宮城道雄と尺八家の吉田晴風(1891?1950)によって、洋楽の要素を取り入れた新しい邦楽を目指す新日本音楽運動が興り、音楽研究家の田辺尚雄,町田佳聲らも同調し、尺八では中尾都山、福田蘭童、野村景久らが参加して邦楽の近代化に寄与した[14][11]。野村は新進気鋭の尺八奏者・作曲家として古賀正男はじめさまざまな音楽家との共演やラジオ出演、執筆などで注目されたが、1933年に一家四人を殺して金を奪う事件を起こして死刑となり、虚無僧の怪しさから来る悪いイメージを払拭し近代化を進めてきた尺八界を揺るがせ、かつて「法器」であった尺八の精神性を見直す気運を生んだ[11]。