上田次朗
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上田 次朗基本情報
国籍
日本
出身地和歌山県田辺市
生年月日 (1947-07-06) 1947年7月6日(75歳)
身長
体重176 cm
80 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1969年 ドラフト1位
初出場1970年4月16日
最終出場1982年7月31日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


和歌山県立南部高等学校

東海大学

阪神タイガース (1970 - 1979)

南海ホークス (1980 - 1982)

阪神タイガース (1982)

コーチ歴


阪神タイガース (1983 - 1987, 1989 - 1994)

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上田 次朗 (うえだ じろう、1947年7月6日 - )は、和歌山県田辺市[1]出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ解説者評論家。縁起を担いで3回にわたって登録名を変更したことでも知られている[2]1970年は上田 二郎、1971年から1976年は上田 二朗、1977年から1978年は上田 次郎を登録名とした。
経歴
プロ入りまで

南部高校(和歌山)のエースとして活躍し、3年生時の1965年には夏の甲子園予選紀和大会の県予選準決勝[3]まで勝ち進むが、県和歌山商に敗退。甲子園出場を逸する[4]

東海大学に進学し、首都大学野球リーグでは在学中7度優勝。1年上の渡辺孝博投手との二本柱で活躍する。1年生の時、1966年春季リーグ戦で開幕投手を務め完投勝利した[4]1968年明治維新百年記念明治神宮野球大会では首都大学選抜のエースとして出場。準決勝では渡辺をリリーフ、大橋穣内田順三らのいた東都大学選抜を4-3で降す。決勝では東京六大学選抜の星野仙一、橘谷健(東大?川崎重工)両投手と投げ合い、田淵幸一谷沢健一らの強力打線を抑えて1-0で完封勝利。この優勝によって首都大学野球リーグの存在感が高まり、上田個人も各球団の注目の的となる。4年生になった1969年には、春季リーグで成城大から完全試合を達成し、全日本大学野球選手権大会では初優勝[4]。この大会では2回戦で明大を降し、決勝では日大と対決。佐藤道郎と互いに無失点で投げ合い、9回表、谷口剛の決勝本塁打により3?0で快勝した。同年の第8回アジア野球選手権大会日本代表。リーグ通算51試合登板、37勝5敗、防御率1.27、393奪三振。最高殊勲選手4回、最優秀投手4回、ベストナイン1回受賞。1試合17奪三振を2度記録した[5][6]。同年のドラフト1位で阪神タイガースに入団[4]。上田が即戦力となることを期待し、ドラフト会議で注目されていた三沢高太田幸司の指名を回避した上での指名だった[5][7]
現役時代

プロ1年目の1970年から先発ローテーションに定着し、規定投球回(リーグ15位、防御率3.00)にも達する。同年4月16日の中日戦で公式戦初登板、7回までマウンドに立つが、試合は1-1の引き分けに終わった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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