上海租界
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1920年の上海、九江路。

上海租界(シャンハイそかい)とは、1842年南京条約により開港した上海に設定された租界(外国人居留地)を指す。当初、イギリスアメリカ合衆国フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編された。上海租界はこれらの租界の総称である。これらの租界は当初の条約を無視して中国側に無断で拡張され続け、租界から外側へと延長された越界路も中国側の許可を得ずに日本を含む列強諸国が無断で敷設し不法占拠したものに過ぎなかった。この強引な拡張政策は中国側と数々の紛争を引き起こし、五・三〇事件など中国人の間に数々の民族闘争を引き起こすことになった[1][2][3]
租界の誕生

中国(朝)が阿片戦争でイギリスに敗北し、「南京条約」によって上海が開港させられた[4]。しかし、この「南京条約」では、イギリス領事が駐在すること、貿易に従事するイギリス人が居住することは認めたが、居住する地域については定められていなかった[5]。翌1843年10月の英支虎門塞追加条約において、双方の協議を以て具体的な地域を決定するとされたことから、英国は同年11月8日に在清国英上海領事ジョージ・バルフォア(英語版)を着任させた。バルフォアは上海市内で邸宅を借受け、11月14日に英国領事館の業務開始を発表、11月17日に上海の開港を公式に告知した。しかし、この開港とともに英国商人らの渡来も増加し、英国人用の居住設備が急がれた。

「南京条約」から2年後の1845年11月に当時の上海道台(中国語版)(地方長官)宮慕久(中国語版)が初代イギリス領事であるバルフォアと度重なる協議の結果、イギリス商人の居留地として黄浦江のほとりに、およそ0.56平方キロの土地の租借を定める『第一次土地章程』(Land Regulations)を頒布した[4]。上海県城の外で外国人の居留地を作ることは、むろん元々はイギリス側の要望によるものであった[4]。協議の前提として、英国は土地章程の公布を条件とした。土地章程では、英国領事館が同区域内での土地登記の公的実務を担うとともに、管理区域内での事件などに関する司法権も規定された。土地登記などの実務は、居住英国人の中から選挙された2名と領事を議長とする計3名が実務を担った。

しかし、『第一次土地章程』で規定されている「華洋分居」などの条文からもわかるように、実質的には中国側が外国人の活動範囲を制限しようとした、一種の隔離政策でもあった[4]1844年締結の望厦条約をうけて、1846年に米国から在清国米上海領事が赴任した。そして、このイギリス租界の成立の影響を受けて、1848年にアメリカ租界、その翌年にフランス租界がそれぞれイギリス租界の北側(呉淞江対岸である虹口一帯)と南の境界線である洋浜(中国語版)の対岸に設置された[4]。これら三つの租界が、そのまま「近代都市」上海の原型となった[4]

ところが、「華洋分居」を原則とし、一定の自治権を持ちながらも、根本的には中国側の管轄下にあったこれらの租界は、設立から10年もたたないうちに、その性格を変えた[4]。原因の一つが1853年9月に起きた秘密結社小刀会の武装蜂起であり、農民軍の1年半にわたり上海県城を占拠したため、大量の難民が発生し、三つの租界に逃げ込んだ[6]。この突然の事態で、従来の「華洋分居」の原則が崩れ、「華洋雑居」の現実を中国側も受け入れざるを得なくなった。この新しい局面に対応するためという口実のもとで、1854年7月、イギリス領事オールコックは、米仏領事とは協議はしたものの、中国側には事後通告という形で、一方的に従来の『土地章程』を修正した『第二次土地章程』を公布した[6]

この『第二次土地章程』には、イギリス租界の新たな境界の確定、租界内の中国人雑居の黙認、「巡捕」(警察)の設置が含まれていた[6]。最も重要な変更は、三国領事による、「租主(借地人)会議」(市議会にあたる)の招集、その執行機関としての工部局の設置である[6]。特に、工部局に「市政府」としての機能を持たせたので、その成立により、租界は中国政府の管轄から完全に離れ、自ら「自治」を始めた[6]。工部局はインフラ整備を通じて中国側に無断で租界の範囲を拡大するだけでなく、徴税権や警察権までをも行使するようになり、法的根拠の無い状態でなし崩し的に上海での支配を拡大していった[1][3]
独立国へ

「自治」を実現した当初の租界は、新たな境界が正式に認められたイギリス租界を中心に、地理的には依然として他の両租界とそれぞれ分かれていた[7]。しかし行政的には、初めて新設された工部局に三租界が統一された[7]。この体制はその後1850年代を通じて、ほぼ10年近く維持された。

太平天国の乱1851年-1864年)に際し、英国・米国・フランスの三租界において防衛と治安維持ための防衛共同会議が提唱されるが、事実上フランス租界がこの協力を拒否。防衛上の協力関係となった英米租界は、防衛のために租界外へ軍事用道路(越界築路)を延長するなど協力態勢となり、1860年の上海侵攻で江南地方の制圧を進めていたのは李秀成軍に対して防衛戦を行う。

この太平天国軍(髪長族)による上海への進攻を機として、1863年9月、英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「外国租界」と変更した[7]。この外国租界は、共同租界と称された。これに対し、防衛会議を拒否したフランス租界は合弁されず、独立した組織へ移行してゆく。フランス租界はイギリス主導の租界運営に見切りをつけ、英米租界の合併に先立つ1862年5月に、統一行政から離脱し、自らの行政機関である公董局(中国語版)を設立した[7]

合併後の外国租界は、管轄地域がかなり拡大し、その行政能力も大きく増進した[7]。太平天国の乱が終焉すると、越界築路は商業・娯楽などを目的とした公用となり、1866年改定の新章程で明文化に至り新権利となり、その後の使用拡大から拡張・延長されていった。また太平天国の乱の拡大により大量の難民が租界に流入した影響もあり、租界当局は、1869年にふたたび『土地章程』を中国側に無断で一方的に改定し、『第三次土地章程』として発表した[8]

この新たな『第三次土地章程』では、従来の借地人会議を納税外人会議に拡大し、これに租税予算の審議権、工部局董事会(市参事会)の選出などの権限を与えられ、いわゆる市議会としての機能を完全に持たせた[8]。工部局の権限もさらに強められ、警察、消防、衛生、教育、財務など市政に関するあらゆる諸機関を設置し、完全な行政システムを成立させた[8]

さらに、『第三次土地章程』の公布に先立ち、工部局側は同年4月、租界在住の中国人をめぐる裁判権に関して『洋浜設官会審章程』という名の司法規定を発布した[8]。この規程によると、租界在住の中国人についての裁判は、租界に設置されている「会審公堂」(裁判所)において、上海道台から派遣された「同知」(裁判官)によって行われる[8]

ただし、当事者の一方が外国人もしくは外国人の雇用した中国人である場合、かならず領事の認定した陪審官とともに審議しなければならず、被告が判決に対して不服がある場合、上海道台と領事官の双方に上訴できるとされた[8]。以上二つの章程により、立法と行政に関しては完全に、司法に関しては制限的ではあるが、租界は一個の「独立国」を立ち上げたといえる[8]。ちなみに、「外国租界」への参加を拒否し、1862年に独自の行政機関である公董局を設立したフランス租界も、この公董局に工部局と同様な機能を持たせ、外国租界の『第三次土地章程』と内容の近い、『公董局組織章程』を頒布した[9]。公董局には、「会審公堂」と同様に裁判機構を設置した[9]。このようにフランス租界もまた、「外国租界」と同様に「独立国」を作り上げたといえる[9]

租界が始まった1845年の時点では中国側の主権保持が明確に規定されていたにもかかわらず、列強はこれらの「土地章程」や「会審公堂」(裁判所)の成立による違法な主権侵犯を中国側に無断で実行し続けた[10]。当然中国側は工部局に対しこれらの撤回と租界拡張を停止する様に申し入れたが、要求は受け入れられなかった[3]
租界の発展19世紀の上海

諸外国によって租界は何度も不法に拡張され、面積的には最初は1.22?だったが最も拡大した時期には32.82?に達した[11]。また、租界から外に向けて伸ばされた越界路だけでなく、その越界路で囲まれた土地全体も不法占拠されたので、それらを合計すると約65?にもなり、これは当時の上海地域の13%にも相当した[12]

上海の中心部ともいえる共同租界の中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる先施公司(中国語版)、永安公司(中国語版)、新新公司(中国語版)そして大新公司(中国語版)といった、1920年から1930年の上海を代表するデパートが立ち並んだ[13]


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