上海上国造(かみつうなかみのくにみやつこ・かみつうなかみこくぞう)は、上総国海上郡(現在の千葉県市原市の一部)を支配した国造。上菟上国造とも。
概要(纒向型前方後円墳)である神門古墳群[1]や、王賜銘鉄剣を出土した稲荷台1号古墳[2]があり、古くからヤマト王権と緊密なつながりがあったことが想定される。『万葉集』巻第十四東歌の筆頭に「夏麻引く海上潟の沖つ渚に船はとどめむ小夜ふけにけり」とあり、水上交通の要衝であったともされる。
また、当国造の領域と下海上国造の領域の間に武社国造の領域がはいっていることから、房総の国造制の展開には少なくとも2段階があったとされ、5世紀までは下海上国も併せ、千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した大勢力であったとする説もある。
その後6世紀に中央から進出した勢力の建てた武社国によって上・下に分割され、さらに村田川流域の菊麻国造の台頭により衰退を余儀なくされた。養老川下流南岸の姉崎古墳群は当国造一族の墳墓とされ、4世紀後半の全長130メートルの姉崎天神山古墳、5世紀前半の全長86メートルの釈迦山古墳に続き、5世紀後半には全長103メートルの姉崎二子塚古墳が造営されているが、6世紀以降とされる古墳が徐々に縮小していることからも衰退が裏付けられる。 『古事記』では天穂日命の子の建比良鳥命[3]を上海上国造の祖としている。『国造本紀』によると成務天皇の時代に天穂日命の八世孫の忍立化多比命
氏族
なお、姉埼神社には上海上国造に任じられた忍立化多比命が天児屋根命と塞三柱神を祀り、忍立化多比命の孫・忍兼命が大雀命を合祀したとされており、姉崎古墳群は姉埼神社を氏神として祀っていた上海上国造一族の墳墓といわれている。
脚注^ これを古墳とすると古墳時代の始まりが大幅にさかのぼるため、古墳ではなく弥生墳丘墓とする説もある。
^ なお、これら養老川北岸の古墳群は首長の墳墓ではなく小勢力のもので、このため王賜銘鉄剣の「王」をヤマト王権の大王とする他、上海上の首長である対岸の姉崎二子塚古墳の被葬者とみる説もある。
^ 建比良鳥命は、武夷鳥命・天夷鳥命・天日照命などとも称される。
参考文献
『國史大辭典』(吉川弘文館)
坂本太郎・平野邦雄『日本古代氏族人名辞典』(吉川弘文館)
『日本古代人名辭典』(吉川弘文館)
『日本史広辞典』(山川出版社)
『神道大辞典』(臨川書店)
『日本史総覧』(新人物往来社)
宝賀寿男『越と出雲の夜明け』(法令出版)2008年
関連項目
国造の一覧
外部リンク
⇒房総の古墳を歩く 上海上国の古墳