上海バンスキング
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上海バンスキング
作者
斎藤憐
日本
言語日本語
ジャンル音楽劇
初出情報
初出舞台公演 1979年1月
雑誌掲載『新劇』(白水社1980年3月号
刊本情報
出版元而立書房
出版年月日1980年3月
総ページ数118
初演情報
場所六本木自由劇場
初演公開日1979年1月25日
劇団オンシアター自由劇場
受賞
第24回岸田國士戯曲賞
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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『上海バンスキング』(シャンハイバンスキング)は、斎藤憐戯曲中華民国期昭和初期)の上海を舞台に、時代に翻弄された人々を描いた音楽劇で、オンシアター自由劇場により1979年に初演された。第24回岸田國士戯曲賞受賞作。これまでに複数回、舞台化や映画化がされている。

バンスキングのバンスは英語のadvance borrowing(前借り)を省略した日本語[1][2]。主人公のクラリネット奏者は、昭和13年から昭和16年まで上海共同租界虹口区の北四川路(現・四川北路)横浜橋のたもとにあったダンスホール「ブルーバード」でバンマスをつとめたアルトサックス・クラリネット奏者である大川幸一をモデルにしている[3]

なお、この話の舞台になったクラブ「セントルイス」の基になったのも「ブルーバード」である。
作品解説
概要

雑誌『新劇』1980年3月号に発表された。初演は1979年にオンシアター自由劇場によって上演された。その後も継続的に上演され、小劇場演劇としては記録的なロングラン公演となった。当時の劇評家たちにも絶賛され、オンシアター自由劇場は1979年の紀伊国屋演劇賞団体賞を受賞し、斎藤は1980年に岸田國士戯曲賞を受賞した。1984年1988年の2度に渡って映画化され、1984年公開の映画では深作欣二が、1988年公開の映画では串田和美がそれぞれ監督を務めている。

「生バンドでつづる、黎明期のジャズマン達の恋と夢、あの街には、人を不幸にする夢が多すぎた…」[4]というキャッチフレーズのもと、所属団員が総出演した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}劇中で歌を歌うまどか役の吉田日出子はこれまでに歌手の経験はなく[要出典]、登場するバンドもまた、プロのミュージシャンではなく、劇団員によって構成されたものであった。それにも関わらず大きな反響を呼び、劇団員によるバンドと、それをサポートするプロのミュージシャンの演奏のもと、吉田がメインボーカルとして劇中歌を披露するコンサートがスタジオアルタ六本木ライブハウス「ピット・イン」で開催された。また、吉田の歌唱が収録された数枚のアルバムが発売された。

この作品の上演以降、斎藤は浅草レヴュー小屋を関連させた「黄昏のボードビル」や、新宿ムーランルージュ新宿座を題材にした「バーレスク1931」など、大衆芸能や娯楽に興じる人々の視点から昭和時代を描こうと試みている。
制作の背景

オンシアター自由劇場は、1966年に東京の麻布材木町(現在の六本木6・7丁目界隈)に開かれた劇場である。駆け出しの俳優と劇作家によって構成され、当初は斎藤も参加していた。1969年に初演となった「トラストD.E」は斎藤が手掛けた作品だが、劇中で歌や演奏を行う場面が登場し、稽古を行う過程で劇団員によって次々と作り直された。音楽を担当した林光は「音楽を先にきっちりと固めてから芝居をそれに合わせる」[5]オーソドックスな方法では対応出来ないと結論を出した。予算がないこともあり、上演時には俳優たち自身が生演奏を行った。「トラストD.E」上演以降も一部の俳優たちは演奏の練習を続け、「上海バンスキング」の上演において生かされることとなった。

自由劇場の串田からミュージカルの脚本依頼を受けた斎藤は、かつて「もっと泣いてよフラッパー」を上演した際に生演奏をした劇団員によるバンドと、昭和初期の上海のジャズを結びつけようと考えた[6]。しかし、当時のジャズに関する資料が極めて乏しかったために、日中戦争が始まる前年の昭和11年から第二次世界大戦が始まり上海のダンスホールが閉鎖される昭和16年の間に上海に渡って音楽活動をしていたジャズメンから情報を入手し、執筆の参考にした。また、昭和初期に活動したジャズメンの聞き書きがまとめられた内田晃一の『日本のジャズ史』は想像力を掻き立てられ、参考になったという[6]
ロングラン公演

1979年1月から2月にかけて六本木自由劇場にて初演、翌年の1980年3月から4月にかけて再演となった。1981年5月から6月および1983年3月から8月には、博品館劇場をはじめとする劇場においても上演され、さらに1984年の9月から12月にかけては全国公演が行われた。こうして、1980年には48回、1981年には50回、1983年には122回、1984年には87回の公演が行われることとなった。

1990年代に入ってからも再演の回数を増やし、1990年の4月から5月、1991年の5月から6月、1994年の7月から8月には、シアターコクーンで再演された。なお、1992年の7月から8月にも再演されたが、シアターコクーンだけでなく札幌でも公演されることとなった。こうして1990年には26回、1991年には20回、1992年には26回、1994年には34回の公演が行われ、初演の22回を合わせて435回もの公演となった[7]

2010年には16年ぶりの再演がシアターコクーンで行なわれた[7][8][9]
一般的なミュージカルとの差異

ミュージカルの脚本を依頼されて書かれたこともあって、数々の音楽を演奏する場面が登場し、劇中の見せ場となっている。しかし、一般的なミュージカルとは異なった作品である。

一般的なミュージカルでは、歌をセリフの替わりに用いたり、ダンスを演技の替わりに用いたりすることで、表現を行うが、この作品ではそれらの点が見受けらない[10]。音楽を演奏する場面があるのは音楽家を主人公にしているためであり、現代劇と同様に舞台はセリフによって進行する[10]

演奏するのも外部のプロの演奏家ではなくて、劇団員がみな演奏できるまでに仕上げた(映画『スウィングガールズ』でも上野樹里をはじめ出演者は演奏経験がほとんどなかった)。
あらすじ

日中戦争が開戦する1年前の1936年の初夏、クラリネット奏者である波多野は、妻であるまどか(マドンナ)と上海にやって来る。軍国主義が広まりつつある日本を離れ、ジャズを自由に演奏できる上海に行くために、波多野は妻をパリに連れて行くとだましたのである。

2人を迎えたトランペット奏者の松本(バクマツ)はギャンブルが好きで、つねにクラブ「セントルイス」のオーナーのラリーから前借り(バンス)をしている。やがて松本はラリーの愛人であるリリーと恋に落ちる。松本に怒りを表すラリーを仲裁するまどかと波多野も、彼らとともにクラブのショーに出演することになる。

松本とリリーが結婚して間もなく日中戦争が始まり、日本の軍隊が上海にも侵略の手を伸ばすことで、上海からは自由もジャズも消えていく。やがて戦争が終わり、再び自由が戻って来た時には、波多野は阿片中毒で廃人となり、戦争に駆り出された松本は戻って来る途中で死んでしまう。
登場人物

波多野四郎:クラリネット奏者で、まどかの新郎

マドンナ(正岡まどか):四郎の新婦

バクマツ(松本亘):トランペット奏者

リリー(林珠麗):セントルイスのダンサー

弘田真造:書生

白井中尉:バクマツの中学時代の友人

ガチャンコ・ラリー:セントルイスの社長

方さん:バクマツの家の使用人

私服

医師

シングリー・田口

レイモンド・コバチ

宮下



ウォン

サーシャ・スベトラーナ

マレーネ・シュミット

楊麗

木下(下士官)

兵士たち

ジャズ・プレイヤーたち

女たち


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