上洛
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上洛(じょうらく)とは、主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。
由来

上洛の「洛」は、平安京を中国の都の名に擬えて「洛陽」と呼んだことにちなむ。また一説に、平安京の左京を洛陽、右京を長安と名付けたが、右京が廃れたことから左京を指す「洛陽」が都を指す名称として使われるようになったとされる[1]
戦国時代の上洛
応仁の乱と各守護の下向

そもそも室町時代においては、多くの守護大名は在京義務が課せられ京都に常駐していた。そのため守護大名が守護に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、上洛は珍しい事でもなかった。しかし、応仁の乱により幕府に守護大名の動きを制御する力が無い事が明白となり、在京の意味は薄れていた。

文明9年(1477年)、応仁の乱の終結とともに西軍は解体され、周防国守護大内政弘などの西軍諸将はそれぞれの領国に帰国を開始したが、能登国守護畠山義統と、足利義視足利義稙親子を伴って帰国した美濃国守護土岐成頼は、それぞれ京の自邸を焼き払って反逆の姿勢を示し(これは在京義務の放棄も意味するものであった)、この炎は仙洞御所にも類焼が及んだ。また、講和に反対し先に下向した西軍の畠山義就は、その後も河内国大和国で戦闘を繰り広げた。同じく最後まで講和に反対した東軍の加賀半国守護赤松政則は、加賀ではなく浦上氏が待つ播磨国に下向し実効支配を行なった[2]

また、応仁の乱の最中には越前国の朝倉氏、尾張国の織田氏、安芸国の武田氏、播磨国の浦上氏、出雲国の尼子氏など、領国の守護代や分郡守護が調略の対象となった。これらの調略により、特に山名氏斯波氏の領国は深刻な事態に陥っていた。このため、東軍、西軍を問わず、多くの守護大名は危機感を持って帰国し、そして在京義務は放棄され、上洛は稀なものとなった[3]。なお、関東については室町幕府の支配は、享徳3年(1454年)の享徳の乱の収拾に失敗し、既に頓挫していた。
将軍権力の解体

この様な状況において、積極的に上洛し在京義務を果たしたのは、三管領の氏族である山城国守護畠山政長、尾張国守護斯波義寛であった。第9代将軍足利義尚、第10代将軍足利義稙の近江遠征(長享・延徳の乱)、明応2年(1493年)の足利義稙の河内遠征(畠山総州家征伐)に従軍し、将軍権力による復権を試みたが、その遠征の最中に細川政元が起こしたクーデターにより、畠山政長は敗死、斯波義寛は越前回復の夢を絶たれ、足利義稙は幽閉され、新たな将軍には足利義澄が擁立された(明応の政変)。更に、将軍直轄の軍事力であった奉公衆も解体され、これ以降の将軍は遠征どころか守護大名に庇護される状態にまで零落することとなった[4]
上洛戦の始まり


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