上泉 秀綱(かみいずみ ひでつな、天正11年(1583年) - 慶長20年2月14日(1615年3月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、米沢藩士。父は上泉泰綱、母は北条氏忠の娘。通称は主水佐、源五郎。 上泉泰綱の嫡男として北条氏の小田原城下で誕生する。名は曽祖父・秀綱にあやかってつけられたと言われている。天正18年(1590年)小田原征伐によって北条氏が没落すると父と共に小田原を後にし、上野国館林・信濃国井上を転々とする。
人物
慶長12年(1607年)江戸城普請を命じられた上杉家の中奉行として工事を指揮。慶長19年(1614年)大坂冬の陣では鉄砲隊を率いて、鴫野の戦いで豊臣軍を破るが、その戦闘で秀綱自身も重傷を負う。景勝の主命によって京都で傷の療養をするも、翌慶長20年(1615年)京都で没した。
秀綱には男子が無かったため、秀綱の死後にその長女が志駄義秀の三男・源五郎
を婿養子としている。なお次女は安江監物に嫁いでいる。