上沼恵美子
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本名上沼 恵美子(旧姓:橋本)
生年月日 (1955-04-13)
1955年4月13日(69歳)
出身地兵庫県三原郡福良町(現・南あわじ市
身長164 cm
言語日本語近畿方言
方言淡路弁
大阪弁
最終学歴帝国女子高等学校大和田校中退
芸風歌手司会者
事務所上沼事務所
活動時期1978年 -
現在の代表番組上沼恵美子のこころ晴天
上沼・高田のクギズケ!
過去の代表番組快傑えみちゃんねる
他の活動歌手
配偶者上沼真平
親族芦川百々子(姉)
ゆじぇーろ(次男、放送作家)
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海原(うなばら) 千里(せんり)
本名橋本 恵美子(結婚前当時)
生年月日 (1955-04-13) 1955年4月13日(69歳)
出身地兵庫県三原郡福良町(現南あわじ市
言語日本語
方言近畿方言
最終学歴帝国女子高等学校大和田校中退
師匠海原お浜・小浜
コンビ名海原千里・万里1971年 - 1977年
相方海原万里(実姉、芦川百々子)
芸風漫才
立ち位置右
活動時期1971年 - 1977年
配偶者上沼真平
親族ゆじぇーろ(次男、放送作家)
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上沼 恵美子(かみぬま えみこ、1955年昭和30年〉4月13日 - )は、日本タレントテレビ司会者歌手、元漫才師。上沼事務所所属。夫は元メディアプルポ代表取締役会長、元関西テレビプロデューサー上沼真平
経歴

3人きょうだいの末っ子(6歳上の姉と2歳上の兄がいる)。兵庫県淡路島にある三原郡福良町(現・南あわじ市)の出身[1]で、島内の中学校を卒業[2]。実家は焼き肉店であった。海原千里・万里時代は、事務所の意向で姉が年齢詐称させられていた為、4歳違いの姉妹として活動。学生時代はバスケットボール部に所属していた。
海原千里・万里時代
1971年 - 1977年

銀行員を務めていた父[3]演芸好きだった事から(父もかつては芸人になりたかったとのこと[4])、幼少時から姉妹揃って演芸や歌を見たり聞いたりして育つ。祖母は浄瑠璃の師匠、太棹三味線の名手だった[3]。姉は浄瑠璃のものまね、自身は美空ひばりものまねをしていた。このように一家で芸事好きだったのが高じて、自分の一家が中心になって「みどり劇団」という劇団を組み、休日に老人ホームへ慰問に行くなどの活動をしていた[5]

元々は歌手志望だったが[6](父には「歌手になったって絶対あかん。顔もあかんし、歌唱力も(天童)よしみちゃんくらいうまかったらな」と言われたことがある[6])、漫才コンビとしてデビューする筈だった姉の相方がデビュー前に失踪した為[4]、父に「お前行け!」と言われ[4]姉と漫才コンビを組む事になり、1969年昭和44年)春、中学2年生になる前の春休みの頃に大須演芸場の舞台に立つ[7]。中学校卒業後、1971年に姉妹漫才コンビ海原千里・万里」の妹海原千里(海原お浜・小浜門下)としてデビュー[8]。同年、上方お笑い大賞銀賞を受賞する[8]。高校生ながら巧みな話術で一躍スターになり、当時人気アイドルで白雪姫と称されていた天地真理に倣い、「漫才界の白雪姫」と呼ばれていた。1973年にはNHK漫才コンテスト優秀敢闘賞を受賞し、1975年にはレコード「大阪ラプソディー」が40万枚を売り上げて大ヒットする。19歳の時、1974年5月初旬に盲腸で大正病院に10日間入院。

1975年、20歳の時に出演した関西テレビ『日曜ドキドキパンチ』で、同局ディレクターの上沼真平と出会う。1977年5月22日、8歳上の真平と結婚[9]。親族・親類全員が反対する状況下での結婚だった。姉とのコンビを解消し、ラスベガスからカウアイ島へと渡る新婚旅行を経て、芸能界を引退する。義母は2007年平成19年)に89歳で亡くなっている。真平の父・健吉は上沼が嫁ぐ前の1969年に亡くなっていて、自身の本籍地である大阪府箕面市桜1丁目の18坪の建売住宅に真平と姑と3人で暮らす事になる。
コンビ解散後

1978年4月、長男(後に上沼恵美子事務所スタッフとなる上沼清太郎)を出産後の7月に料理番組のアシスタントで芸能界へ復帰[8]1983年5月に次男(後に構成作家となるゆじぇーろ)を出産した。芸能界復帰について、上沼は後に番組内で「自分には専業主婦は耐えられなかった。」と述懐している。また、読売テレビ『上沼・高田のクギズケ!』内で島田紳助の引退について触れた際は、自身の引退時に「番組スタッフとかが離れていった事が寂しかった。」と明かした[10]
1990年代

1994年平成6年)と1995年にはNHKNHK紅白歌合戦』の紅組司会を担当した。1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を担当した際、「上沼恵美子なんて大阪だけのタレントです。それをNHKが紅組の司会に起用したっていう事は風当たりも強かったですし、やはりベテラン歌手にはいびられました」「ベテラン歌手から『あんたみたいなもんが紅組の司会ってなんやの』という態度で迫られた」と語っている。出場歌手と面談した際、「横を向いて目を会わせてくれない方が4、5人いた」と『あさイチ』(NHK総合テレビ、2015年12月25日放送)で語っており、「その人たちは未だに大っキライです」とも述べた[11]。しかし、翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』での紅組司会の際については「ころっと変わりました。大事にされました」と話している[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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