上毛かるた
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上毛かるた(じょうもうかるた)は、1947年昭和22年)12月に群馬文化協会が初版を発行した[1][2]郷土かるたである。古くは上毛と呼ばれた群馬県の歴史、自然、人物、産業などを読んでおり[3]、全44札[2][4]

2013年(平成25年)10月28日に結ばれた合意書に基づき、群馬県庁著作権を譲り受け[1]、以降、著作権と商標権を管理している[5][2]
概要上毛かるたの情報発信施設(博物館・美術館)として2022年に開館した「かるた館」(群馬県吾妻郡東吾妻町岩下)[2][6]

初版発行の翌年、1948年(昭和23年)に第一回競技大会が開かれた[2]。毎年1月の予選大会の後、2月に行われる上毛かるた県競技大会に向けて、群馬県内の子供たちは、冬休みを利用するなどして練習に励む。

NPO法人日本郷土かるた協会(群馬県北群馬郡吉岡町)などによると、郷土かるたは一時ブームとなり全国で2000以上が発案されたが、大会が30回以上開かれるなど継承されているのは30ほどで、その一つである上毛かるたは地元に定着している[2]。そのため、子供時代を群馬県で過ごした人は、上毛かるたの読み札をほぼ暗記していることが多い。したがって、県特有の郷土かるたが存在し、それが県民に広く親しまれている地域は群馬県のみであるという事実を、成人になって知る場合もある。

1998年(平成10年)には、英語版も発行された。財団法人群馬文化協会が発行元であり、各種の著作権を有していたが、2013年(平成25年)10月28日に結んだ協定書で上毛かるたの権利を群馬県に無償譲渡し、翌11月28日に解散した[1]。昨今では県競技大会の他にも上毛かるたを用いたイベントが行われており、2013年(平成25年)2月からは初の全国大会となる「KING OF JMK?おとな達の上毛かるた日本一決定戦?」も開催されている。

2022年11月には、民間企業が吾妻郡東吾妻町岩下の国道145号沿いに、入場無料の展示施設「かるた館」を開設した[2]

2022年(令和4年)の販売部数は7740部で2019年に比べ約4割減っており、新型コロナ禍の余波や少子化、大会を開かない子供会の増加が影響している[4]
「ち」の札と人口

力(ちから)あわせる「〇〇万」

となっている「ち」の札の「〇〇」には群馬県の人口が入り、10万人増減するごとに改訂されてきた[4]1947年(昭和22年)の国勢調査では157万2787人で、初版は「力あわせる百六十萬(万)」であった[4]1993年(平成5年)から「二百万」となっているが、2004年(平成26年)の203万人をピークに群馬県の人口は減少に転じ、2023年(令和5年)に「力あわせる百九十万」へ改訂された[4]

1973年(昭和48年)から「百七十万」、1977年(昭和52年)から「百八十万」、1985年(昭和60年)からは「百九十万」だった。上毛かるたを知っている人たちの間で、それぞれの年代を知る目安に使われることもある[7]
誕生

日本が第二次世界大戦に敗れた翌年の1946年(昭和21年)、旧制前橋中学出身の浦野匡彦(のちに二松學舍大学学長に就任)は、満州国から故郷の群馬県へ引き揚げ、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいた。敗戦後の世情は混乱し、戦災孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものだった。また、GHQの指令により、学校教育での地理歴史の授業は停止されていた。人一倍郷土を愛し、誇りに思っていた浦野は、群馬の子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせていった[8]

そのような中、1946年(昭和21年)7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、浦野は安中出身のキリスト教伝道者である須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案される。1947年(昭和22年)1月11日の『上毛新聞』紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募った。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によって44の句が選ばれた。絵札を画家の小見辰男に、読み札裏の解説を歴史研究家の丸山清康に依頼し、その年内に初版12,000組が発売された。翌1948年(昭和23年)には第一回上毛かるた競技県大会が開催される[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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