上林暁
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上林 暁
(かんばやし あかつき)
代表作の舞台となった聖ヨハネ病院にて(1953年)
誕生徳廣 厳城
1902年10月6日
高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口
死没 (1980-08-28) 1980年8月28日(77歳没)
言語日本語
国籍 日本
最終学歴東京帝国大学英文科卒
ジャンル小説私小説
代表作『薔薇盗人』(1932年)
『聖ヨハネ病院にて』(1946年)
『春の坂』(1957年)
『白い屋形船』(1963年)
『ブロンズの首』(1973年)
主な受賞歴芸術選奨文部大臣賞(1959年)
読売文学賞(1965年)
川端康成文学賞(1974年)
デビュー作『薔薇盗人』(1932年)
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上林 暁(上林 曉、かんばやし あかつき、1902年(明治35年)10月6日[1] - 1980年(昭和55年)8月28日[1][2])は、日本小説家で、昭和期を代表する私小説作家の一人。高知県出身。本名は徳廣 巌城(とくひろ いわき)[1]。『薔薇盗人』で登場、その後私小説に活路を拓き、『聖ヨハネ病院にて』などの病妻物で高い評価を受けた。代表作は『薔薇盗人』『聖ヨハネ病院にて』『春の坂』『白い屋形船』『ブロンズの首』など。日本芸術院会員。
来歴・人物

高知県幡多郡田ノ口村下田ノ口(現・黒潮町)に生まれた[2]。高知県立第三中学校(現・高知県立中村高等学校)時代には、雑誌『文章世界』に影響を受け、友人らと語らって回覧雑誌『かきせ』を発行し、この頃に小説家になる希望を持った。また、芥川龍之介に傾倒する。

1921年(大正10年)に熊本第五高等学校文科甲類に入学[3]。入学した年に校友会雑誌『龍南』の懸賞創作に応募した「岐阜提燈」が三等に入選[3]。翌年には雑誌部委員となる。1922年(大正11年)に高等学校の寮を出て、熊本市上林(かんばやし)町75の森山方に下宿する[3]。「上林」の筆名は、このときに住んだ地名に由来する[3]

1924年(大正13年)東京帝国大学文学部英文科に進学し[2]、1927年(昭和2年)に卒業後は改造社に入社[2]。『現代日本文学全集』の校正や雑誌編集に従う傍ら、同人雑誌『風車』を刊行し[2]、同誌に『渋柿を囓る少年又は飯を盗む少年』『凡人凡日』『夕暮の会話』を発表する。改造社では従業員の執筆活動を禁止していたため、「上林暁」の筆名を用いた。

1932年(昭和7年)8月、『薔薇盗人』が川端康成に「云ひたいことを実によく裏に押しこめながら、反つてよく貧苦を浮ばせ、目に見えぬものを追ふかのやうな少年の感情を生かしたことは、生活を見てゐる眼の誠実の手柄である」と激賞され注目された[4]1938年(昭和13年)の『安住の家』で私小説作家として評価される[2]1939年(昭和14年)に妻の繁子が精神病を発病し[2]1946年(昭和21年)に亡くなるまでの間、『聖ヨハネ病院にて』などの病妻物を書き、広く読者に迎えられた。1959年(昭和34年)『春の坂』で芸術選奨文部大臣賞受賞[2]

1962年(昭和37年)二度目の脳出血で右手、足、口が不自由になるも[2]。妹・睦子の献身的な介護と口述筆記により『白い屋形船』以降の小説を書きついだ。1964年(昭和39年)『白い屋形船』で昭和39年度読売文学賞受賞[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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