上村 松篁(うえむら しょうこう、1902年(明治35年)11月4日[1]-2001年(平成13年)3月11日)は日本画家。
幼名は信太郎。母は近代美人画の大家、上村松園。父は松園の師の日本画家鈴木松年ともされるが、未婚であった松園は多くを語らなかった。息子も同じく日本画家の上村淳之である。目次
1 略歴
2 エピソード
2.1 鳥に関するもの
2.2 母・松園に対して
2.3 梅原猛の考察
3 主な作品
4 関連書
4.1 参考文献
4.2 画集
5 脚注
6 関連項目
6.1 画風
6.2 団体
6.3 人物
7 外部リンク
略歴
1902年(明治35年) - 京都に生まれる
1921年(大正10年) - 『閑庭迎秋』が帝展に初入選する
1924年(大正13年) - 京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)卒業
1928年(昭和3年) - 『蓮池群鴦図』が帝展の特選となる
1948年(昭和23年) - 奥村厚一、秋野不矩、山本丘人らと日本画の団体『創造美術』を結成
1959年(昭和34年) - 芸術選奨文部大臣賞を受賞
1967年(昭和42年) - 日本芸術院賞を受賞[2]
1968年(昭和43年) - 京都市立芸術大学名誉教授
1973年(昭和48年) - 勲三等瑞宝章を受章
1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員となる
1983年(昭和58年) - 文化功労者
1984年(昭和59年) - 文化勲章
1994年(平成6年) - 松伯美術館が開館
2001年(平成13年) - 心不全のため死去。98歳
※創造美術はその後、新制作協会日本画部を経て創画会となる
エピソード
鳥に関するもの
鳥の写生には強いこだわりを持っており、「鳥の生活を理解しなければ、鳥は描けない」と言い、鳥の観察のためにインドやオーストラリア、東南アジア等を旅行した。
また、奈良市郊外の自身のアトリエの敷地にも大規模な禽舎(鳥小屋)を設け、1,000羽を超える鳥を飼って生涯観察を続けていた。彼の死後、この禽舎は息子の上村淳之が管理している。
とりかかると厄介なモチーフとして、ウズラを挙げている。
円山派の流れに立つが、円山派の描いた鳥に対しては、「十分、生きた鳥になりきっていない」と不満を言っていた。
母・松園に対して
幼い頃の松篁には、松園は『二階の画室にこもって絵を描いている』姿程度しか記憶になかった為、松園のことを「二階のお母さん」と呼んでいた。
松園が描いた作品で好きなものとして、『春苑』、『天保歌妓』の二つを挙げている。
美人画を描かなかった(『万葉の春』の様に例外もある。)松篁だが、松園の影響を受けていることを認めている。
梅原猛の考察
哲学者の梅原猛は、『アート・トップ』1978年12月号に掲載された小論で、「上村松篁の花鳥画は、鳥の世界に移された一種の美人画である。」と言う様な主旨を述べている。また、「その根底には、幼少からの『人間嫌い』がある。」とも述べている。
主な作品
『金魚』(1929年、松伯美術館蔵)
『星五位』(1958年、東京国立近代美術館蔵)
『万葉の春』(1970年、松伯美術館蔵)
『樹下幽禽』(1966年、日本芸術院蔵)
『閑鷺』(1977年、山種美術館蔵)
関連書
参考文献
「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と生」著・梅原猛、新潮社:上記の小論が掲載されている。
「芸術の世界 梅原猛対談集」著・梅原猛、講談社:松篁と梅原の対談が収録。
画集
「上村松篁画集 作品一九二一‐一九八〇」講談社
「花下鳥遊 上村松篁自選素描集」日本経済新聞社
「唳禽集 上村松篁 画集・写真集複製画」中央公論美術
[脚注の使い方]
^ 上村松篁 :: 東文研アーカイブデータベース https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/28214.html
第一部(美術)
日本画
1943: 島田墨仙
1948: 伊東深水
1951: 徳岡神泉
1953: 児玉希望
1954: 金島桂華
1955: 橋本明治
1956: 東山魁夷・山口華楊
1957: 杉山寧
1958: 森白甫・菅楯彦・望月春江
1959: 加藤栄三・森田沙伊
1960: 高山辰雄・池田遙邨・郷倉千靱
1961: 川崎小虎・岩田正巳・矢野橋村・西山英雄
1962: 榊原紫峰・小倉遊亀・三輪晁勢
1963: 奥田元宋・山田申吾
1964: 山本丘人
1965: 浜田観・麻田弁自
1966: 中村貞以・山本倉丘