獲得メダル
日本
柔道
オリンピック
金1976 モントリオール男子無差別級
世界選手権
金1975 ウィーン男子無差別級
銀1973 ローザンヌ男子無差別級
上村 春樹(うえむら はるき、1951年2月14日 - )は、日本の柔道家(講道館9段)。
1976年モントリオールオリンピックの柔道無差別級金メダリスト。引退後は全日本柔道連盟会長(2009年4月 - 2013年8月)、国際柔道連盟指名理事(2007年9月 - 2013年8月、2015年8月 - )、第5代講道館館長(2009年4月 - )等を歴任している。 目次 熊本県下益城郡小川町(現・宇城市)出身[1]。生来の肥満体を案じた両親に勧められ小学校5年生の時に柔道で始めた[1]。6年生で出場した地域の小学生大会で優勝を果たしたが、上村は「周りの子が体重40kg前後なのに対し自分だけ70kgだったから優勝して当たり前」「翌日に学校の朝礼で表彰された時は嬉しいを通り越して恥ずかしかった」と述懐している[1]。柔道を始めてからも運動神経の鈍さは変わらず、町立益南中学校時代は100mを20秒で走り懸垂や逆上がりは一度も出来ず[2]、柔道は背負投を得意にしていたものの県大会にすら出場できなかった。 県立八代東高に入学すると、後に上村自身が“世界を目指せたきっかけの1つ”と語る、土谷新次師範(のち講道館8段)と出会う。グラウンド10周と打ち込み500回を日課にして基礎体力を作り上げ、入学時に100kgあった体重を76kgまで絞った事に加え、「内股なら日本の誰よりもうまく教える事ができる」と語る土谷を信じてその技を吸収した[1]。なお、土谷は目が不自由であったため“音で知る技の良し悪し”を上村らに伝授し[2]、実際に土谷の足技は抜群であったと上村は語っている[1]。結局、3年間インターハイへの出場は叶わなかったが、個人戦県大会3位の実績が買われて1968年福井県親切国体の熊本県高校代表に選抜されると、5試合を全て違う技で一本勝ちしてチームの団体優勝に貢献した[1]。 試合後、大会視察に来ていた明治大学柔道部監督の神永昭夫から、同大学を受けるよう勧誘された[1]。 自信満々で入学した明治大学だったが、その自信は練習初日に木端微塵に打ち砕かれた[1]。容赦なく畳に叩きつけられた衝撃を上村は「初めて自分より強い人たちとばかり練習した」「とんでもない所へ入ったと思った」と述べている[1]。 さらに入学2週間後、初試合となった東京学生体重別選手権では同期の川口孝夫らが優勝する中、上村は初戦で青山学院大学の選手に絞め落とされ敗れてしまう[1]。大きな挫折と敗北感から、会場の隅で柔道を諦め熊本へ帰る決断をしていた上村は、神永から「人並みにやったなら人並みにしかならない、素質の無いものは2倍,3倍やらないとチャンピオンになれない」と活を入れられ、帰郷を思い留まる[2]。以降は他人より1日に20分長く練習する事とし[注釈 1]、先輩相手にも妥協をしない稽古[注釈 2]ゆえにスタミナが付き、“ザ・ガードマン”とあだ名されるほど受けが強くなった[2]。また、高校時代より得意にした内股に固執していた上村だったが、神永の「世界に出たいなら、内股以外の技も覚えなさい」とのアドバイスに従い、神永の現役時代の得意技であった体落と大内刈の習得に取り組んだ。これは、高校時代の恩師・土谷の「上達への近道は身近な先生の技を盗む事」の言を実践してのものだった[1]。神永の指導の下で頭角を現した上村は大学4年次にはレギュラー・ポイントゲッターとなり[2]、4月には柔道家にとっての檜舞台である全日本選手権に東京代表で初出場したほか[注釈 3]、同年11月の全日本学生選手権や世界学生選手権で優勝した。 1973年3月に大学を卒業すると、世界を目指すには東京か大阪にいるのが常識だったこの時代に、周囲の反対を押し切って宮崎県延岡市の旭化成柔道部に入部。入社早々の4月29日に出場した2度目の全日本選手権で優勝し日本一の柔道家となった。上村本人は「抽選の悪戯によるマグレ」とコメントしているが[2]、大阪府警柔道師範(当時)の広瀬巌は大会論評で「柔軟な腰と堂々たる体躯で姿勢正しく、対戦中は退かず、常に前に出る度胸を持った本格の柔道家」と上村を称賛している[3]。同年10月の世界選手権無差別に出場して決勝まで進むも、二宮和弘との日本人対決で敗れ準優勝に終わる。 翌1974年は4月の全日本選手権で、永くライバルと呼ばれる遠藤純男(警視庁)に敗れてベスト8止まり。この際に“やはり延岡では無理”“上村は終わった”と表現されたのが悔しくて、それまでの前か後ろに投げる技だけでなく、横へ崩す技・横へ投げる技を鍛え上げる[2]。また、延岡という地では練習相手になる選手が極端に少ない中、同じ境遇の鹿児島に拠点を置きながら終戦直後に全日本選手権を3度制した吉松義彦にあやかって、膝付き一本負け稽古(自分が技を掛ける時や相手の技を受ける時に、上村の膝が畳に付いただけでも上村の一本負けとなる)を採り入れ、加えて、自分が技を掛ける時は出す技を予告するなど、かなり独特の練習を行った[1]。 1975年の全日本選手権では初戦から3回戦まで僅差の判定で辛勝し、準決勝戦では日の出の勢いで勝ち進む同郷・熊本出身の高校生山下泰裕から大内刈で有効を取り優勢勝ちを収めた[4]。2年前と同じ高木長之助との顔合わせとなった決勝戦では、両者ポイント無しながら、習得した横捨身技の浮技で試合を終始優勢に進めた上村の判定勝となり自身2度目の優勝。同年10月の世界選手権に無差別で出場した上村は、準決勝戦でショータ・チョチョシビリ(当時ソ連代表)と当たった。
1 来歴
1.1 高校まで
1.2 明治大学時代
1.3 全日本選手権と世界選手権
1.4 モントリオールオリンピック
1.5 引退とその後
2 全柔連不祥事問題への対応
3 指導経歴
4 戦績
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 関連項目
7 外部リンク
来歴
高校まで
明治大学時代
全日本選手権と世界選手権
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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