上村愛子
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上村 愛子
2009年撮影
名前
愛称アイコ
カタカナウエムラ アイコ
ラテン文字Aiko UEMURA
基本情報
国籍 日本
種目フリースタイルスキー・モーグル
所属北野建設
生年月日 (1979-12-09) 1979年12月9日(44歳)
生誕地兵庫県伊丹市
居住地長野県北安曇郡白馬村/東京都
身長156cm
体重51kg
ワールドカップ戦歴
デビュー年1996-1997季
引退年2013-2014季
総合優勝2007-2008季

獲得メダル

フリースタイルスキー世界選手権
銅2001 ウィスラーモーグル
銅2005 ルカデュアルモーグル
金2009 猪苗代モーグル
金2009 猪苗代デュアルモーグル
ワールドカップ
銀2001-02シーズン総合成績
金2007-08シーズン総合成績


上村 愛子(うえむら あいこ 1979年12月9日 - )は、日本の女子フリースタイルスキーモーグル元選手。兵庫県伊丹市出身、長野県北安曇郡白馬村育ち。血液型AB型。2008年紫綬褒章受章者[1]。JOCスポーツ賞特別貢献賞受賞者[2]

冬季オリンピックでは、5大会連続(1998年長野2002年ソルトレークシティ2006年トリノ2010年バンクーバー2014年ソチ)で女子モーグル日本代表として出場し、いずれも4?7位の入賞を達成する。さらに日本人では史上初めての、ワールドカップ年間総合優勝も成し遂げた。

2014年4月に現役引退[3]スポーツビズ所属。夫は元アルペンスキー選手の皆川賢太郎
来歴
幼少時代

1979年12月9日兵庫県伊丹市鴻池にて誕生。生後間もなく、先天性心室中隔欠損症であることが判明する。1981年、2歳のとき、両親のペンション経営開業にともない、長野県小県郡長和町エコーバレースキー場付近に転居し、同地で1982年、3歳からスキーを始める。1986年、両親が別物件のペンション経営を行うため、長野県北安曇郡白馬村に転居し、白馬村立白馬北小学校に進学、同地でアルペンスキーを始める。1992年白馬村立白馬中学校に進学し、スキー部に所属するも、入部早々にいじめを受け退部。個人的なアルペンスキーの練習を行うに留まる。
モーグル転向

1994年、白馬中学校2年生時にカナダウィスラーへ旅行した際、モーグルスキーブラッコム大会を観戦してロシアセルゲイ・シュプレツォフの滑走に感銘を受ける。また、同大会で、頭角を顕しつつあった「テディベア」の愛称を持つ里谷多英の滑走を観戦する。

また、お気に入りのスキー板が盗まれ、代わりの板にと上村の実家のペンションで働いていたことがあった写真家の千安英彦にモーグル用の板を勧められたこともあって[4]、この経験で帰国後はアルペンスキーの種目からモーグルへ転向する。1998年長野オリンピックに向けての強化プロジェクトに係わっていた千安は、フリースタイルスキー・モーグルの女子選手を探しており、スカウトされるような形にもなった[4]

1995年長野県白馬高等学校に進学、スキー部に所属。自身2度目となる全日本選手権に参戦し3位入賞、全日本スキー連盟(SAJ)ナショナルチームメンバーに選抜される。
世界を転戦

1996年、ワールドカップ最終戦マイリンゲン大会に初出場、高校1年生で3位入賞という快挙を達成。同大会の男子優勝者は同じ日本代表の坂本豪大であり、モーグル競技における初の日本選手W杯優勝であると同時に、初の日本選手男女アベック表彰台となった。
長野五輪7位入賞

1998年、弱冠18歳にして上村自身初めての冬季オリンピック・女子モーグル日本代表出場となった、1998年長野オリンピックでは、2月8日の予選を13位(21.82点)で通過[5]。3日後・2月11日の決勝本番でも大きなミスなくまとめて、いきなり7位入賞(23.79点)の好成績を残した[6]

なお、同女子モーグル日本代表の里谷多英が、日本女子史上初の冬季五輪金メダルを獲得する快挙を達成。その直後に上村は嬉し泣きしながら、里谷と抱擁しつつ祝福するシーンが映し出された。

同年3月、白馬高校を卒業し北野建設に入社。社会人としての競技生活を開始する。18歳での五輪出場や整ったルックスなどの話題性もありメディアに多く取り上げられ、里谷多英らと共に日本女子の代表的な冬季スポーツ選手の1人となった[7]
ソルトレイクシティ五輪6位入賞

22歳の2002年、自身2度目の冬季五輪出場となるソルトレークシティオリンピックに出場。

2月10日、予選では日本女子トップの4位(23.82点)で通過。決勝ではメダル獲得が期待されたが、わずかにエアの着地が乱れ、滑走のスピードも伸びずに6位入賞(24.66点)に留まった(里谷は冬季五輪2大会連続メダルとなる銅メダル獲得)[8]

2002年-2003年シーズンのレークプラシッド大会において、FISワールドカップ初優勝。2004年-2005年シーズンのヴォス大会において、ワールドカップ2勝目を挙げる。
トリノ五輪5位入賞

26歳の2006年トリノオリンピックへ自身冬季五輪3度目の出場となる。試合前から膝を負傷するハンデを背負いながらも、2月11日の予選では日本女子首位の5位(24.20点)で通過。同日の決勝では、世界女子選手でも稀な大技エア「コークスクリュー(空中で縦方向と横方向の両方に身体を回転させる、3Dエア)」を成功させるも、得点は伸びずに5位入賞(24.01点)に終わった[9]

3大会連続して入賞は果たすも、五輪メダルを再び獲得できなかった同大会終了後のインタビューにおいて、上村は薄っすらと悔し涙を浮かべながら、「一体どうすればオリンピックの表彰台に乗れるのかが…ナゾです…」とコメントした。
ヤンネ・ラハテラへ師事

2005年-2006年シーズンが明け、2006年からはヤンネ・ラハテラに師事。ラハテラは、採点配分の低いエアー技にこだわる上村を説き伏せ、ターン技術とスピードアップを求め、怪我に苦しんだ上村を励まして徹底した走法改善を施した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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