上村彦之丞
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渾名船乗り将軍
生誕1849年6月20日
嘉永2年5月1日
日本薩摩国鹿児島城下平之町
死没 (1916-08-08) 1916年8月8日(67歳没)
日本東京府
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴1876年 - 1914年
最終階級 海軍大将
墓所

鎌倉市妙本寺青山霊園
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上村 彦之丞(かみむら ひこのじょう、1849年6月20日嘉永2年5月1日) - 1916年大正5年)8月8日)は日本武士薩摩藩士)、海軍軍人鹿児島出身。海軍兵学校卒業。最終階級は海軍大将従二位勲一等功一級男爵。渾名は「船乗り将軍」。
経歴

薩摩藩漢学師範・上村藤一郎の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島城下平之町(現在の鹿児島県鹿児島市平之町)に生まれた[1]鳥羽・伏見の戦い会津戦争[2]に参戦した。海軍兵学寮に進んだが、在籍中に西郷隆盛が下野したことを受けて上村も鹿児島に帰った。しかし西郷の説諭により兵学寮に戻る。山本権兵衛日高壮之丞らが行動を共にしている。在学中の成績は不良で後に海兵2期から4期となるべき生徒全員が受けた試験で最下位となった。雲揚艦乗組みとなって再教育を受けた後、少尉補試験に合格。4期生として卒業したが、席次はやはり最下位であった[3]。しかし将官となってからは、海軍教育本部長や、軍務局長を務めるなど、軍政面でも活躍した。また常備艦隊司令官として指揮した兵学校30期の遠洋航海は、日本が司令官を据えて行う練習艦隊のはじまりである[4]連合艦隊首脳部。左から舟越楫四郎島村速雄東郷平八郎、上村彦之丞、加藤友三郎秋山真之

日清戦争では防護巡洋艦秋津洲の艦長として出征。第一遊撃隊に属し、豊島沖海戦では砲艦操江を降伏させた。これは日本海軍が敵軍艦を降伏させた最初の事例である[5]。続いて黄海海戦でも武勲を挙げた。日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦ウラジオストク艦隊を撃破。日本海海戦では判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ、戦勝の重要な基因をなした。1907年(明治40年)に男爵を授爵。

戦後は横須賀鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を務め、海軍大将で退役となった。軍功から元帥となる可能性もあったが、実現していない。黒木為陸軍大将と同様に、剛直で荒々しい性格が評価されなかったともいわれている。ただし、元帥就任は大将として大きな功績を挙げたものという条件があり、日露戦争における上村の階級は中将であった。
日露戦争
常陸丸事件

開戦当初、第二艦隊司令長官として補給航路防衛の任に当たっていたが、日本海特有の濃霧やウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に苦しめられた。常陸丸、佐渡丸が相次いで撃沈される常陸丸事件が発生すると、防衛責任者として糾弾された。議会では野党代議士から「濃霧濃霧と弁解しているが、濃霧(のうむ)は逆さに読むと無能(むのう)なり、上村は無能である」と批判を受け、民衆からは「露探(ろたん)提督」(ロシアのスパイという意味)と誹謗中傷され自宅に投石された。この事態に部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた[6]
蔚山沖海戦

蔚山沖海戦では、ウラジオストク艦隊撃滅寸前まで追い詰めながら、「我レ、残存弾数ナシ」と書かれた伝言用黒板を部下から手渡され、攻撃を終了した。上村は伝言板を叩きつけ踏みつけたが、その形相は周囲を震えさせるものだった。一方では、沈没に瀕しながら最後まで砲撃を続けていた巡洋艦リューリクの乗員に対し、「敵ながら天晴れな者である。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令し627名を救助した。この戦果と救助活動が伝えられると国民は手の平を返すように上村を称賛し、この時の状況を歌った軍歌『上村将軍』[7]は長く日本海軍将兵に愛唱されたが、上村自身はこの歌を嫌っていたとされている。

上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん

救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり
日本海海戦「日本海海戦」も参照

日本海海戦では第2艦隊を指揮した。

足利学校には、日露戦争の勝利を祝い、明治39年12月22日の孔子祭の際に東郷平八郎、伊東祐亨とともに手植えした月桂樹が残っている。墓所は鎌倉市妙本寺のほか青山霊園にも墓碑がある。
人物・逸話

同郷の東郷平八郎が「彦之丞ほど感情の激しい男は居らん」と称したように、上村は短気で喧嘩早く、尚かつ酒豪であった。海軍内では多少浮いた存在ではあった[8]が、情に厚く部下思いであった。日清戦争当時、殴り合いを演じた相手を気に入り、後にイギリス留学できるよう取り計らっている。第二艦隊司令長官時代に先任参謀を務めた佐藤鉄太郎はかつて干戈を交えた庄内藩、第一艦隊司令長官時代の参謀である今村信次郎常盤盛衛はそれぞれ米沢藩会津藩の出身である。そして軍事参議官時代の副官の一人は会津松平家の当主である松平保男であった[9]東京都目黒区青葉台に「上村坂」と云う地名があるが、これは上村の屋敷があった事に由来する[10]
親族

養嗣子 -
上村従義[11]海軍大佐。貴族院議員。

義娘 - 上村なミ。従義の妻で山本権兵衛の娘。

義孫 - 従義の子。上村邦之丞。華族赤化事件で治安維持法違反に問われ検挙。

関連書籍

『上村将軍言行録』平凡社、1930年。

年譜海兵生徒時代 前列左から2人目が上村、左は雪下熊之助、後列左5人目山本権兵衛、9人目片岡七郎(於サンフランシスコ)


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