上杉綱憲
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 凡例上杉 綱憲
時代江戸時代前期 - 中期
生誕寛文3年10月28日1663年11月27日
死没宝永元年6月2日1704年7月3日
改名吉良三之助(幼名)→上杉景倫→綱憲
別名喜平次 [注釈 1]
戒名法林院殿法印権大僧都映心
墓所山形県米沢市上杉家廟所
官位従四位下侍従弾正大弼
幕府江戸幕府
主君徳川家綱綱吉
出羽米沢藩
氏族吉良氏上杉氏
父母父:吉良義央、母:上杉富子
養父:上杉綱勝
兄弟綱憲、吉良三郎、鶴姫(島津綱貴継室)、振姫、阿久利姫 [注釈 2]津軽政?室)、
菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)
妻正室:徳川光貞娘・栄姫
側室:茨木氏、樫田氏
吉憲吉良義周、上杉憲孝[1]勝周勝延、豊姫(黒田長貞正室)、他
養女 [注釈 3]:鶴姫(島津綱貴継室)、阿久利姫(津軽政?室)、菊姫(酒井忠平室→大炊御門経音室)[注釈 4]
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上杉 綱憲(うえすぎ つなのり)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出羽国米沢藩4代藩主。山内上杉家20代当主。高家肝煎吉良上野介義央の実子(長男)で、上杉家に養子入りする。藩主在任中は教学振興を行い、後に藩校興譲館となる聖堂・学問所を設立する一方で財政を悪化させた。を愛好し複数の能面や装束が現存している。
生涯
米沢上杉家の相続

旗本の吉良家に産まれたが母方の祖父上杉定勝の上杉家が絶えそうになったため養子となり相続した。上杉家は足利将軍家の姻族で関東管領を世襲するほどの名家であったが、綱憲の実家の吉良家も足利将軍家と同流の足利氏一門で、評定衆を世襲するほどの家であった。

高家肝煎・吉良義央の長男として誕生する。幼名は三之助。母は上杉綱勝の妹で、義央の正室・富子寛文4年(1664年5月10日に、米沢藩3代藩主で伯父の上杉綱勝が嗣子の無いままに急死した。米沢藩は無嗣断絶により改易されるべきところを、綱勝の岳父であった陸奥国会津藩主・保科正之の計らいによって、義央と富子の間に生まれたばかりの三之助を末期養子とすることで存続を許された。義央は扇谷上杉家上杉氏定の血を引いている。「会津松平家譜」によると、幕閣では綱勝の後継者に保科正之の子の正純を据えることも検討されていたが、正之が謝絶したとされている。

三之助は上杉喜平次景倫(かげのり/かげとも)と改名し、6月5日に正式に上杉家の当主となった。時に2歳。竹俣義秀や中条知資らの補佐を受ける。

末期養子による相続の代償として、信夫郡伊達郡を削られ藩領は置賜郡のみとなり、30万石の所領は15万石に半減された。このため米沢藩は恒常的な財政逼迫に悩まされることになった。

7月11日、幼少の藩主・喜平次に代わって家臣が謝礼のため、4代将軍徳川家綱の御前に出て綱勝の遺品の左吉貞の脇差及び徽宗筆の書の掛幅を献上した。寛文8年(1668年)8月25日、喜平次自身が初めて将軍に御目見する。延宝3年(1675年)11月23日、将軍家綱の御前で元服し、養父同様、家綱の偏諱をうけて綱憲と改名し、従四位下侍従弾正大弼に叙任した。義父の綱勝と同名となることを避けるため、の下の字(2文字目)には、曽祖父の景勝、祖父の定勝、伯父の綱勝と3代に亘って通字化していた「勝」の字ではなく、かつての上杉氏の通字であった「憲」の字を使用した。綱憲以降は現在に至るまでこの字を使用する当主が多くみられる。「勝」の字は四男・勝周を祖とする新田上杉氏へと継承された。

上杉家では延宝2年(1674年)4月に綱憲の傅役である竹俣充綱が上杉家の家史編纂を進言し、延宝5年(1677年)4月には正式に着手され、元禄9年(1696年)5月には「謙信公御年譜」が、元禄16年8月には「景勝公御年譜」が完成した[2]

延宝6年(1678年)、徳川御三家の一つである紀州藩主・徳川光貞の娘である栄姫を妻に迎える。正室の縁により、徳川綱教は義兄、徳川頼職徳川吉宗は義弟となった。延宝7年(1679年)4月21日、初めて封地の米沢に入部を許される。天和元年(1681年)4月19日、新将軍・徳川綱吉から行光の刀を賜う。

元禄2年(1689年)11月、実家の吉良家に後継者がいなくなっていたことから、次男の春千代(のちの吉良義周)を父・義央の養子とした。こうした3重の縁により、吉良家と上杉家の関係は親密なものとなった。吉良家の普請や買掛金は上杉家が負担するのが恒例となった他にも、毎年6,000石の財政援助が吉良家に対して行われた。この負担の大きさに、上杉家の江戸勘定方・須田右近は、米沢の重臣に宛てた書状の中で「当方もやがて吉良家同然にならん」と嘆いている。
藩政

藩政は、教学振興や風俗統制、役職整備、歴史編纂といった文治政治に力を入れている。このため、七家騒動千坂高敦らが上杉治憲らの改革を批判する際、「風俗もよく、政治もよし」と綱憲の治世を評価している。

風紀取締りには厳罰を持って対処し、治世中は家事不正による譜代家臣の追放が多く、天和3年(1683年)に領内に博打した者を死罪とする法令を出す。

元禄5年(1692年)に、支城のうち4箇所を「役屋」、城代を「役屋将」に改めている(館山城[注釈 5]・高畠城は例外)[3]

元禄10年(1697年)6月15日、米沢藩学館の始めとなる聖堂・学問所を藩儒兼藩医の矢尾板三印の自宅に建設 [注釈 6]し、聖堂の扁額を「感麟殿」とする [注釈 7]。また、上杉謙信景勝の年譜を完成させる。


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