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凡例上杉 朝興
時代戦国時代
生誕長享2年(1488年)
死没天文6年4月27日(1537年6月4日)
別名五郎
官位修理大夫
氏族扇谷上杉家
父母父:上杉朝寧、養父:上杉朝良
兄弟朝興、朝成
養兄弟:長野業正正室、藤王丸
子朝定、上杉の方(武田晴信正室)[1]、憲勝?
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上杉 朝興(うえすぎ ともおき)は、戦国時代の武将・大名。扇谷上杉家当主。 長享2年(1488年)、上杉朝寧の子として誕生。叔父・上杉朝良の養子となる。 永正2年(1505年)、山内上杉家との抗争に敗れた養父・朝良は隠居を余儀なくされたため、朝興が家督を継いで扇谷上杉家の当主となるが、実権は依然として朝良が握っていた[2]。永正15年(1518年)に朝良が死去し、実権を掌握する[3]が、朝良には晩年になって実子・藤王丸が生まれており、朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように遺言し、朝興は藤王丸の後見人(名代)のような立場になったとされている。 当初は、小弓公方足利義明や相模国の新興大名である北条氏綱と結んで山内上杉家と対峙していたが、大永3年(1523年)頃から氏綱と距離をおいて、山内上杉家との和議に動き始める[4]。 大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ、しかし時同じくして太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原[5]で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。同年2月には資高の一族の太田資頼も氏綱に内応して岩付城を奪うが、7月には朝興に帰参したためそのまま岩付城に置かれている。 大永5年(1525年)2月には北条氏綱の反撃を受けて岩付城を攻め落とされ資頼は石戸城
略歴
享禄3年(1530年)6月、小沢原の戦いでは氏綱の嫡男・北条氏康に敗れたが、同年9月には太田資頼の攻撃によって岩付城を奪回している。天文元年(1532年)、藤王丸を殺害(享年15)し、自らの子・朝定を正式に後継者にした[8]。
天文2年(1533年)には武田信虎の嫡男・勝千代(晴信)の正室として娘を嫁がせる[1]など、山内上杉家・武田氏らと連携して北条氏綱を攻め、天文2年と天文4年には相模国まで侵攻するなど、北条氏にとっても軍事的脅威であり続けた[9]。しかし、遂に江戸城奪回を果たすことなく、天文6年(1537年)4月27日、河越城で病死した。享年50。跡を子の朝定が継いだ。
脚注^ a b 『勝山記』『山資』6所載による。
^ ただし朝良の隠居はなかったとする説もある。
^ またはこのとき初めて家督を継承する。
^ 森田真一「北条氏と山内・扇谷両上杉氏」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P222-223.
^ 現東京都港区高輪。
^ 黒田基樹「岩付太田氏の系譜と動向」(黒田 編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』(2013年、岩田書院)総論)
^ 現埼玉県和光市白子。
^ ただし、藤王丸の殺害を記した『快元僧都記』天文元年12月17日条によれば、藤王丸は既に後北条氏の支配下にあった江戸で殺害されたことになっており、後北条氏による殺害の可能性もある(黒田基樹「関東享禄の内乱」(佐藤博信 編『関東足利氏と東国社会 中世東国論:5』(岩田書院、2012年) ISBN 978-4-87294-740-3)。
^ 森田真一「北条氏と山内・扇谷両上杉氏」黒田基樹編 『北条氏康とその時代』 戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 2〉、2021年7月。ISBN 978-4-86403-391-6 P226.
出典
七宮A三『関東管領・上杉一族』(新人物往来社、2002年) ISBN 440402973X
表
話
編
歴
扇谷上杉家当主(1505年 - 1537年)
宗家
重顕
朝定
顕定
氏定
持定
持朝
顕房
持朝(再襲)
政真
定正
朝良
朝興
朝定