「上杉謙信」とは別人です。
凡例上杉 景虎
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文23年(1554年)
死没天正7年3月24日(1579年4月19日)
改名北条西堂丸[注釈 1]または竹王丸[2](幼名)→三郎→氏秀?[3]→上杉景虎
別名出西堂(号)、北条氏秀[注釈 2]
戒名徳源院要山浄公
墓所勝福寺(新潟県妙高市)
主君上杉謙信
氏族後北条氏→上杉氏
父母父:北条氏康、母:遠山康光妹
養父:北条幻庵、上杉謙信
兄弟北条新九郎、北条氏政、北条氏照、北条氏邦、北条氏規、北条氏忠、景虎、北条氏光、桂林院殿(武田勝頼継室)、蔵春院殿(今川氏真室)、ほか
義兄弟:景勝、上条義春、山浦国清
妻正室:北条幻庵娘
継室:清円院(長尾政景娘)
側室:妙徳院(遠山康光義妹)
子道満丸、男子、女子、女子
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上杉 景虎(うえすぎ かげとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。北条氏康の七男。母は遠山康光の妹。初めは北条 三郎(ほうじょう さぶろう)と名乗ったと推定される。のちに上杉謙信の養子になり、その初名である「景虎」を名乗った。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお、北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる[4]。 しかし、同盟締結において北条氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)[注釈 3]、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される[6] 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという[注釈 4]。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を介して北条氏への牽制を行っており、北条氏内部においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)北条氏康の死去に際して、上杉景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている[8]。同年12月、家督を相続した兄・北条氏政は「甲相同盟」の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切れとなるが、上杉景虎はそのまま越後へ留まっている[注釈 5]。 天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が病死した。その結果、上杉景虎は義兄弟の上杉景勝と家督を巡って対立することとなった。それは上杉家の大きな内紛に発展し、御館の乱となる。 この時、上杉景虎は上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は上杉景虎が優勢であった。これに対し、上杉景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。 天正6年(1578年)5月13日、上杉景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある「御館」(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に上杉景虎への援軍を打診し、武田勝頼は同年5月に信越国境まで武田軍を出兵させた。 天正6年(1578年)6月、上杉景勝方は武田勝頼に和睦を提案し、上杉と武田の間で和睦交渉が始まった。北信地域における上杉領の割譲を条件に上杉景勝と武田勝頼の間で和睦が成立し、甲越同盟が締結された。6月中に武田勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。 天正6年(1578年)8月、上杉景虎と上杉景勝は一時的に和睦が成立した。 天正6年(1578年)8月、三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、武田勝頼は越後から武田軍を撤兵した。この時に上杉景虎と上杉景勝間の和睦も破綻し、再び両者の間で戦いが始まった。 一方で北条氏は北条氏照・氏邦らが三国峠を越えて越後に侵入し、荒戸城を落とし、さらに上杉景勝の拠点であった坂戸城の至近である樺沢城をも落としてこれを本陣とした。しかし樺沢城の北条軍はそれ以上は軍を進めず、樺戸城に氏邦勢と北条高広・北条景広らを残して、三国峠に冬が来る前に関東に一旦撤兵した。上杉景勝はこの機を逃さず攻勢を強めた。 天正7年(1579年)、まだ三国峠の雪が解けぬ前に御館は落城した。景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害した。通説では24歳とされる。嫡男の道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された[9]。 孤立無援となった上杉景虎は、実家の北条氏を頼って小田原城に逃れようとした。しかしその途上において鮫ヶ尾城主の堀江宗親の裏切り・謀反に遭い、自害した。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 こうして御館の乱は上杉景勝が勝利した。また、上杉景虎の敗北は武田家と後北条家との「甲相同盟」の破綻に至り、それ以降の地域情勢にも大きく影響した。 墓所について、『北越軍記
生涯
北条氏時代
三郎から景虎へ
家督争い詳細は「御館の乱」を参照
近年の研究
謙信は関東管領職、山内上杉家(上杉宗家)当主の跡目を景虎に継がせ、越後国主、越後長尾家当主、上杉宗家当主である景虎の補佐役の一人に景勝を任ずるつもりであったとする説がある。しかしこの他にも、越相同盟後、謙信によって権力強化の進められた景勝を後継者としていたとする説、景虎に関東管領と山内上杉家、景勝に越後国主の座と長尾上杉家(新たに分家させる)をそれぞれに継がせるつもりであったとする家督分権説[注釈 6]など多くの説が存在していて、この議論は未だ決着を見ない。