上杉景勝
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 凡例上杉 景勝
上杉景勝像(米沢市上杉博物館)
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕弘治元年11月27日[1]1556年1月8日
死没元和9年3月20日[2]1623年4月19日
改名長尾卯松(幼名)→顕景(初名)→上杉景勝
別名喜平次(通称)、越後宰相中将、越後中納言、会津中納言(受領名)、御中城様(尊称)、宗心(法名)
戒名覚上院殿法印権大僧都宗心
墓所上杉家廟所景勝廟
山形県米沢市の松岬神社
和歌山県高野町の高野山清浄心院など
官位弾正少弼越後従四位下左近衛権少将従三位参議、近衛中将、権中納言、贈正三位
幕府室町幕府江戸幕府
主君上杉謙信豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
出羽米沢藩主(初代)
氏族平姓長尾氏藤姓上杉氏(米沢上杉家)
父母父:長尾政景、母:仙桃院
養父:上杉謙信
兄弟長尾義景、清円院上杉景虎継室)、景勝、妹(畠山義春正室)、妹?(桂姫)
義兄弟:畠山義春上杉景虎山浦景国
妻正室:武田信玄の娘・菊姫
継室:四辻公遠の娘・桂岩院
定勝
養子:畠山義真[注釈 1]
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上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名豊臣政権五大老の一人。米沢藩の初代藩主。山内上杉家17代目。

上田長尾家出身で、初名は長尾顕景。同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた[注釈 2]。実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となった。

豊臣秀吉に仕え、豊臣家五大老の1人として、会津藩120万石(「上杉家記」では120万1,200石余、上方の在京領は除く)を領した。秀吉の死後、徳川家康景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は石田三成ら西軍に付き敗北した。戦後に、徳川家康から上杉家の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となった。
生涯
出生と若年期実父母の長尾政景と仙洞院戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図

弘治元年(1555年)11月27日、越後国魚沼郡上田庄(現・新潟県南魚沼市)の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれる[1]。幼名は卯松、のち喜平次顕景とした[1][注釈 3]。生母は長尾景虎(のちの上杉謙信)の異母姉・仙洞院である[1]

景勝の母方の祖母(長尾為景の妻で仙洞院の母)は上条上杉弾正少弼の娘[3]であり、また、景勝の父方の曾祖母(上田長尾房長の母)も上条上杉家の娘である[4]。したがって、景勝は父母双方から本来の上杉氏(上条上杉家・越後守護上杉家)の血を引いていることになる。

長兄が早世したので世子となるが、永禄7年(1564年)の父・長尾政景の溺死を受け、春日山城に入って叔父・謙信の養子となり[注釈 4]、謙信・景勝と2代続けて長尾家出身者が上杉家の家督を引き継いだ。外祖父である長尾為景の家系は、為景の曽祖父頼景の代から越後守護代を務め、為景の代で上杉定実を擁立し、上杉房能を自刃させている。その後、為景と定実の仲は悪化したが、祖父の房長(当時の上田長尾家当主)は定実に味方していた。

永禄9年(1566年)、謙信の関東出兵が初陣であると言われている。以降、景勝は上田衆を率いて越中国の将・椎名康胤の取成や謙信旗本吉江資堅の軍役を定めるなど、謙信政権下で重要な役割を担っていく。

天正3年(1575年)、名を長尾顕景(ながお あきかげ)から上杉景勝(一説では長尾景勝)に改めると共に、謙信から弾正少弼の官途名を譲られた。同年の『上杉家軍役帳』によると総勢375人の軍役を負担し、謙信への尊称であった「御実城様」と似た呼び名である「御中城様」として上杉一門衆筆頭に記載される。
上杉家の家督争い上杉景勝像(上杉神社蔵)詳細は「御館の乱」を参照

天正6年(1578年)3月13日[5]、謙信が死去すると、後北条氏から人質として出され謙信が養子に迎えた上杉景虎[注釈 5]との相続争いが勃発する(御館の乱)。これは謙信が後継者を指名しないで急死してしまったことや、越後国の長尾諸家を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んでいると言われる。

3月24日、いち早く春日山城本丸と金蔵を占拠した景勝側が有利となり、春日山城下の御館(上杉憲政の屋敷)に立て籠もった景虎と争う。

6月、甲相同盟に基づき、武田勝頼が景勝・景虎間の調停のため信越国境まで出兵すると、一転して景勝は窮地に陥った。

しかし、東上野の割譲と黄金譲渡を条件として武田氏と和睦したことによって武田家の後ろ盾を得た景勝は戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹・菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田との関係を強化した[注釈 6]。なお、勝頼は三河国徳川氏駿河国に侵攻したため、同年中に越後から撤兵している。

天正7年(1579年)、景虎正室である実姉(妹とも)・清円院は景勝からの降伏勧告を容れずに自害[注釈 7]

同年3月、和議を申し出ようとした養祖父の上杉憲政が景虎の嫡男・道満丸とともに何者かによって討たれる[注釈 8]など徐々に立場を悪くした景虎は自害する[6]

天正8年(1580年)、越後国の豪族も追従し、景勝は名実ともに上杉家の当主となった。そして戦後処理では自分に味方した豪族への恩賞は抑えて上田長尾系の家臣を大身に取り立て、謙信と共に戦った国人衆は景虎方だけでなく自派までも粛清して上田長尾家が完全支配する体制を築いていく。


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