上杉憲春
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この項目では、南北朝時代の関東管領(山内上杉家の人物)について説明しています。守護大名・上杉禅秀(犬懸上杉家)の息子については「上杉禅秀」をご覧ください。

 凡例上杉憲春
時代南北朝時代
生誕不明
死没天授5年/康暦元年3月7日1379年3月25日
戒名大沢院高源道珍
幕府室町幕府 関東管領 上野武蔵守護
主君足利基氏氏満
氏族山内上杉家
父母父:上杉憲顕
兄弟憲将、憲賢、能憲、憲春、憲方憲英憲栄岩松直国室、上杉朝房

上杉 憲春(うえすぎ のりはる)は、南北朝時代武将守護大名関東管領 上野国武蔵国守護
生涯

山内上杉家の祖・上杉憲顕の子として誕生。正平23年/応安元年(1368年)、兄・能憲と共に新田義宗脇屋義治らの反乱鎮圧に出陣して功を挙げた。若い頃から鎌倉公方足利基氏及びその子氏満に近侍しており、建徳2年/応安4年(1371年)には上野守護に任じられた。上野は山内上杉家の本拠であり、本来であればその守護職は同家の嫡流とされてきた能憲及びその養子・憲方が就くべき地位であったことから、一族内に動揺が走った。

能憲が晩年に作成した譲状の中でも憲春に対して憲方に守護職を譲るように迫る文言が含まれている。なお、天授3年/永和3年(1377年)には憲春は武蔵の守護にも任ぜられている。同年には関東管領に任じられたとされている(『喜連川判鑑』・『鎌倉大日記』)が、翌天授4年/永和4年(1378年)就任とする説がある(『鎌倉九代後鑑』)。

文書類において憲春の管領就任を裏付けることが出来るのは、天授4年/永和4年に関東管領であった兄・能憲の死後のものに限られる[1]

天授5年/康暦元年(1379年)春、京都管領細川頼之が辣腕を振るっていたことに対して斯波義将土岐頼康らが3代将軍足利義満に対して頼之の解任を求める康暦の政変が起こると、氏満は将軍職への野心を燃やして上洛して義満を討とうとした。これに対して憲春は懸命に氏満を諌めたが、氏満は憲春の諫言を無視して京都に攻め入ろうとしたため、憲春は同年3月7日、諌書を遺して鎌倉の自邸で諌死して果てた。この憲春の命をかけての諌死が奏功し、氏満は京都へ攻め入る計画を中止した。

だが、この諌死は必ずしも美談として捉えることは出来ない。山内上杉家の嫡流ではない憲春は、氏満からの信頼と室町幕府が補任権を持つ関東管領の地位によって、辛うじて自己の政治的地位を支えている状態であった。氏満の上洛の企ては、憲春の政治的地位を破綻させるに十分であった[2]。更に上洛計画が幕府側に発覚した場合には、氏満に代わって責任を取る者が必要であった[3]。こうした状況下で憲春に選べる選択肢は、自らの命を絶つことしかなくなっていたと考えられるのである[4]
脚注^ 当時の関東管領は2人制であったが、小国浩寿は通説では建徳元年/応安3年(1370年)に関東管領を辞任したとされる上杉朝房について、同年に辞表を提出したものの、実際には認められず引き続き名目上の関東管領であった可能性を指摘している。小国はその上で天授4年/永和4年段階で憲春が実質上の関東管領であったものの、欠員がなかったために正式な管領に就任することが出来ず、能憲の死による管領の空席発生によってその地位を継いだとみる。
^ 氏満に加担すれば関東管領の地位を失い、対立すれば氏満の信頼を失い、いずれにしても正当な後継者とされた憲方と彼を押す上杉氏一門による政治的失脚は避けられなくなる。
^ 実際に既に義満と通じていた憲方は、氏満の命令で京都に向けて出兵したにもかかわらず、途中で義満から関東管領就任の御内書を得て鎌倉に帰還している。
^ 小国、2001、P160-164。

出典

小国浩寿「鎌倉府北関東支配の形成」(小国『鎌倉府体制と東国』(吉川弘文館、2001年)
ISBN 978-4-642-02807-3










関東管領(1377年 - 1379年)
鎌倉府
古河府

斯波家長1336-1337

上杉憲顕1338

高師冬1339-1344

上杉憲顕1340-1351

高重茂1344-1349

高師冬1350-1351

畠山国清1353-1361

高師有1362-1363

上杉憲顕1366-1368

上杉能憲1368-1378

上杉朝房1368-1370


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