武将の「上杉憲将」とは別人です。
凡例上杉 憲政
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕大永3年(1523年)
死没天正7年3月18日(1579年4月13日)
改名憲政→憲當(憲当)→光徹(法名)
別名五郎(通称)、成悦、光哲
戒名臨川寺殿立山光建
慶雲院殿泰公宋大居士
墓所山形県米沢市の照陽寺
上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。室町幕府の関東管領(1531年-1561年)。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎(のちの上杉謙信)を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った。謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死した。
※憲当(読み同じ、旧字体:憲當)、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。 大永3年(1523年)、上杉憲房の子として生まれる。大永5年(1525年)に父が死去したとき、まだ3歳という幼少であるため、父の養子である上杉憲寛(古河公方・足利高基の子、初名:足利晴直)が家督を継いで当主となった。家臣の古幡良家
生涯
家督相続
享禄4年(1531年)、関東享禄の内乱の結果、先代実子の憲政を擁立する成田氏・安中氏・藤田氏・小幡氏などの勢力が、対立していた憲寛方の長野氏らに勝利し、憲政が山内上杉家の家督を継いで関東管領となった[2]。同年中、古河公方家内部対立も決着がついた[3]。 天文10年(1541年)、信濃国の村上義清・諏訪頼重、甲斐国の武田信虎らは上野国と隣接する信濃小県郡へ侵攻し、5月23日の海野平の戦いで海野棟綱を破ると棟綱は上野へ逃れ、憲政に救援を求める[4]。同年7月4日に憲政は救援のため信濃佐久郡への出兵を行うと、諏訪郡の諏訪頼重は盟約関係にある武田氏・村上氏らに無断で憲政と和睦し、所領を分割する[5][注釈 2]。 この頃伊豆国・相模国の後北条氏が武蔵国へ進出し、憲政の軍をたびたび破った。後北条氏の勢力拡大を危惧する憲政は天文14年(1545年)に仇敵扇谷上杉家の上杉朝定と結び、後北条氏に接近していた古河公方・足利晴氏を上杉方に引き込み、駿河国の今川義元とも和睦した。そして古河公方・関東管領の威光により周辺武士を糾合し、義元の挙兵で北条氏康が駿河へ出陣した隙に、晴氏・朝定と共に北条綱成が守る河越城(かつての扇谷家の城。)を大軍で包囲した。しかし翌天文15年(1546年)4月、今川氏との戦いを収めた氏康との決戦で大敗を喫し(河越城の戦い)、3,000人余の将兵を失って居城である上野平井城に逃れた(この時、本陣を命がけで守り、逃走を手助けしたのは本間近江守と本庄氏一族の本庄藤三郎と本庄実忠とされる。)。 その後は「憲当」と改名[注釈 3]して勢力の立て直しを図ったが、天文16年(1547年)に村上氏との連携により信濃志賀城救援に出兵した際に、佐久郡小田井原における小田井原の戦いで武田晴信(信玄)に大敗を喫した[8]。また、この頃に古河公方の後継者として足利藤氏を支持する一方、越後の長尾晴景にも協力を求めており、永正の乱以来断絶していた山内上杉家と長尾氏の関係を修復していることが分かる[9]。 武蔵では自立的な忍城の成田氏に続き、代々の山内上杉家家臣も離反していく。北多摩・入間を領した勝沼城の三田氏が後北条氏に帰順し、秩父・児玉・大里の雄たる藤田氏や南多摩の大石氏が後北条氏から養子を迎え降伏して、憲政は次第に上野に押し込められていった。その上野でも伊勢崎の那波氏と国峰城 天文21年(1552年)、武蔵の最前線たる御嶽城
北条・武田との戦い
平井落城と越後入り
なお『関東古戦録』によれば、平井落城の際に平井城に留まった嫡男・龍若丸が憲政により置き去りにされ、厩橋にあった家臣に預けられたが、その家臣が後北条氏へと裏切ってしまい、龍若丸は北条氏康に捕らえられ処刑されたという。一方で、同時代史料の「仁王経科注見聞私 奥書」によると、御嶽城落城の際に若君(龍若丸と推定)が捕縛され氏康に殺害されたと風説が流れたという[10]。
憲政の越後入りの時期については異説が示されている。通説では平井落城後にすぐに越後へ向かったとされるが、『上杉家文書』には弘治3年(1557年)、『上杉家御年譜』には永禄元年(1558年)に憲政が越後入りしたと伝えており[12]、このうち永禄元年説が有力とされる[13]。平井落城で上野南部は後北条氏の領国と化したが、越後国に入る前は上野中部・北部にあって後北条氏に対抗していたとされる[12]。
しかし東上野は古河公方の影響が強かったため、古河公方が足利義氏擁立で後北条氏の傀儡と化すると、その命令に屈する形で天文23年(1554年)に横瀬氏と桐生氏が、弘治2年(1556年)に最も抵抗の激しい足利長尾氏も後北条氏に降伏することになった。