上方歌舞伎
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上方歌舞伎(かみがたかぶき)
主に江戸時代の大坂京都を中心に発展した歌舞伎・技法・演出・演技法・演目・劇壇などの総称。江戸の江戸歌舞伎に対比する上方歌舞伎(かみがた かぶき)のことをいう。

主に明治以降、関西の大歌舞伎やその一座・劇壇などの総称。特に戦後昭和になって上方で活動する歌舞伎役者の数が著しく減ると、上方ではもはや複数の座を組むことができなくなり、必然的に大看板の役者でも一座することを余儀なくされた。これを東京の菊五郎劇団吉右衛門劇団猿之助劇団などに対比する上方歌舞伎という。

江戸歌舞伎と上方歌舞伎

上方歌舞伎は江戸歌舞伎とともに歌舞伎の両輪をなし、江戸歌舞伎が荒事と言う勇壮な芸を作り出したのに対し、和事とよばれる柔らか味のある芸を形成している。廻り舞台やセリ上げなどの舞台機構も上方で生まれるなど18世紀ころは上方歌舞伎の方が進んでいた。丸本物とよばれる人形浄瑠璃の歌舞伎化したものや、石川五右衛門など天下を狙う悪人が大活躍するお家騒動物などの脚本が多い。筋は複雑で喜劇的要素が見られる。全体的に趣向に富むが独創性に乏しく、19世紀後半の並木五瓶以後は、江戸歌舞伎の四代目鶴屋南北二代目河竹新七(黙阿弥)のような優れた作者は出なかった。このため今日上演される上方系の歌舞伎のうち、丸本物以外の作品は少ない。わずかに金澤龍玉作『渡雁恋玉章』(雁のたより)、近松徳三作『伊勢音頭恋寝刃』(伊勢音頭)、奈川亀輔作『敵討天下茶屋聚』(天下茶屋)あたりが残るくらいである。

以後上方歌舞伎は歌舞伎界の中心から外れてゆくが、これは文化の中心が上方から江戸へ移り、江戸歌舞伎が発展していくのと符合する。

演出も上方と江戸では異なる。今日上演される丸本物には上方式と江戸式の演出がある。一例を『仮名手本忠臣蔵・六段目』の勘平で示すと以下のようになる。

勘平の衣装

江戸:勘平は水色の絹の紋服に着替える。

上方:勘平は終始猟師のやつし姿である。幕切れにおかやが紋服を肩にかけさせる。

これは、江戸が勘平の見た目の美しさを強調するに対し、上方は勘平はあくまで猟師としてであり、死に臨んで武士に戻るという理屈である。

勘平の切腹

江戸:勘平は千崎と原に問い詰められ、割り台詞のうちいきなり切腹。

上方:千崎と原に問い詰められたあと、二人が与市兵衛の傷跡を確認しているときに切腹。

上方は浄瑠璃の文言「いすかの嘴のくいちがい」を活かして、無罪が晴れる直前に死ぬという悲劇性を強調する。

幕切れ

江戸:勘平は手を組みおかやにだきかかえられて落ち入る。

上方:千崎・原を見送りに這っていき落ち入る(二代目實川延若の演出)。二人に平伏するやり方(初代中村鴈治郎)もある。

江戸のは様式性を重視する幕切れであるが 上方は最後は武士として礼を尽くすという理屈である。このように、合理的、論理的な面が目立つが、これは町人社会が成熟していた大阪という土地の特色も関係が有ると思われる。

観客をあの手この手で喜ばせるため、ケレンや、即興、その他アクの強い演出がとられたりするのも上方歌舞伎の特色である。娯楽性については、今日の吉本新喜劇や上方落語などにも同様の傾向が見られる。大正時代に『神明恵和合取組』(め組の喧嘩)が大阪で上演されたとき、鳶と力士の双方の訴えをすることで幕切れとなった。そのとき「ええっ、もう終いでっか」「何じゃカスみたいなもんや」と観客から苦情が出た。このあと裁きの場が続いて出ると期待していたのである。江戸では「粋」とみなされる演出が上方では物足らなく見えるのである。逆に上方風の演出は江戸ではくどいとみなされ「野暮」に見えた。三代目中村歌右衛門四代目市川小團次が江戸の一部の観客に受け入れられなかったのもこの点にあった。上方歌舞伎の演出は戦後衰亡したが、近年、三代目市川猿之助四代目坂田藤十郎らの努力で再評価されている。

江戸時代は東西の歌舞伎交流が盛んに行われ、上方風の演出が数多く江戸にもたらされ江戸歌舞伎の栄養源ともなった。竹本と呼ばれる義太夫の使用、早変わりなどのケレン、現実的な演技などである。これらは四代目鶴屋南北河竹黙阿弥らにより江戸風の演出が加えられた。また、東西の歌舞伎俳優もしのぎを削り合う相手として芸の研鑽に勤め双方の芸の向上につながったのである。

上方では、「型」を重視せず、やり方は自分自身で創意工夫することが大事といわれた。江戸では様式美の継承が重んじられ、教えられたとおりにしないと非難されるが、上方では教えられたとおりにすると工夫が足らないと非難された。初代中村鴈治郎が同じ狂言を毎日違う形で勤めるなか、子の二代目鴈治郎(当時は初代扇雀)が父から教えられたとおりに『心中天網島・河庄』を勤めたとき「何で教わったままにするんや、お前の工夫はないやないか」と叱った事などは、その好例である。ゆえに代々の家の芸は作られなかったり途絶えたりした。そのせいか、上方歌舞伎役者の代数も江戸のそれに比べると極めて少ない。一方では、門閥外から実力で名題になる例が上方では多かった。これは、「家」と格式を重んじる武士の都の江戸と実力本位の町人の都大阪との違いが影響していると考えられる。
歴史
興隆の時代
江戸時代中期八代目片岡仁左衛門演じる大星由良之助

元禄時代(17世紀後半)近松門左衛門が大阪道頓堀の竹本座で『出世景清』『曽根崎心中』『平家女護島』『女殺油地獄』などを人形浄瑠璃として発表するが、それらはすぐ歌舞伎化される。初代坂田藤十郎が近松門左衛門と提携して和事の芸を完成させた。貴人が粗末な町人姿で馴染みの遊女に逢うという「やつし」がお決まりの展開だった。ほか、初代嵐三右衛門、女形の心がけを説いた初代芳澤あやめ、大和屋甚左衛門、水木辰之助などの名優が同時期に活躍した。歌舞伎の劇場は京は四條河原の南座が中心で、大阪は道頓堀に官許の芝居小屋が集まり大西・中・角・角丸・若太夫・竹田の芝居小屋が軒を並べていた。このうち中と角が格の高い大芝居で、他はそれより廉価な値段で見られる浜芝居(中ゥ芝居)だった。四條河原、道頓堀ともに上方歌舞伎の中心だった。

18世紀に入ると歌舞伎は人形浄瑠璃に人気を奪われるが、その間に『仮名手本忠臣蔵』、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』、『けいせい恋飛脚』などの人形浄瑠璃の作品が歌舞伎化された。これらは義太夫狂言あるいは新しい表現では丸本物と呼ばれ、歌舞伎の重要な演目として後世に大きな影響を与えている。18世紀中頃には初代瀬川菊之丞初代中村富十郎ら名女形が所作事を大成し、初代小川吉太郎は絶えていた和事芸を再興させた。

初代並木正三初代中村歌右衛門と提携して『宿無団七時雨傘』『けいせい天羽衣』『三十石?始』『桑名屋徳蔵入船物語』などの優れた脚本を作り、舞台面では能舞台同様だった破風や大臣柱を取り払って舞台を広げ、強盗返、奈落を活用した廻り舞台せり・宙乗りなどを編み出してスペクタクル性を強め、演出面では義太夫を台本に入れるチョボの採用などの功績をあげ、歌舞伎は息を吹き返した。

18世紀後半には狂言作者初代並木五瓶、役者では初代嵐雛助のほか、初代尾上菊五郎初代澤村宗十郎らが江戸に下り江戸歌舞伎に大きな影響を与えている。三代目中村歌右衛門の「武部源蔵」(19世紀初め)
幕末から明治時代二代目尾上多見蔵「玉屋新兵衛」(1849年)

19世紀から幕末にかけて、「兼ねる」役者と呼ばれた万能選手の名人三代目中村歌右衛門や七代目八代目片岡仁左衛門二代目嵐吉三郎、ケレンで売り出した二代目尾上多見蔵、和事芸の名人二代目實川額十郎などの名優が活躍した。一方、四代目市川小團次四代目中村歌右衛門四代目中村芝翫のように江戸に下って活躍する者も多く、役者の質は江戸にひけをとらなかった。ただ大芝居の役者が格下の浜芝居に出るようになって芝居の品格が低下したり、有能な狂言作者が出ず、演目の内容が同じ種目の書き換えや浜芝居の人気狂言の上演などで独創性に欠け、江戸歌舞伎との質の差が逆転する。歌舞伎評論家の権藤芳一はその著書『上方歌舞伎の風景』(2005年、和泉書院)の中で当時の状況を「安くて面白ければよいとする観客、そして狂言作者、役者、劇場のいずれもが、歌舞伎というドラマに対して節度を喪失したこと、上方歌舞伎衰退の原因ではなかったか」と分析している。

それでも明治に入ると名興行師の三栄と大清が道頓堀の芝居を盛りたてた。

ここの芝居小屋は「道頓堀五座」と呼ばれ、東側の堺筋方面から西に向かって、弁天座、朝日座中座、浪花座と五つ並び、歌舞伎や新派、五郎劇などが上演されていた。向かい側には芝居茶屋が軒を並べ賑わっていた。役者も名優が集まり、上方和事の第一人者初代實川延若はこってりとした芸風で、ケレンを得意とした初代市川右團次は体を張った高度な技芸を見せ、新しい歌舞伎を目指した中村宗十郎は東京の舞台に進出するなど、おのおの大活躍して「延宗右」の時代と呼ばれる空前の繁栄をもたらした。そして明治末に関西歌舞伎の真髄ともいうべき初代中村鴈治郎が登場する。
鴈治郎の時代初代中村鴈治郎

明治から大正にかけ、中村鴈治郎によって和事の芸が極限にまで洗練された。生来の美貌に加え、初代延若、九代目市川團十郎などの東西の役者の芸を学ぶなどの旺盛な研究心、そして華やかで見せ場に満ちた演技などが鴈治郎をして関西歌舞伎の王者たらしめたのである。同時に興業会社松竹の白井松次郎大谷竹次郎兄弟は鴈治郎と提携して勢力を伸ばし、東西の歌舞伎の興行権を独占することとなり、鴈治郎の存在はその後の歌舞伎の歴史をも変えてしまったのである。

現代の人気歌手のように、若い女性が「ガンジロハン」と嬌声をあげて舞台に殺到し、定紋のイ菱をあしらった土産物は飛ぶように売れたのである。ただ彼が単なる人気者で終わらなかったのは、その数多い素晴らしい舞台は伝説となり今日の関西歌舞伎に大きな影響を与え続けているということである。今日上演される『心中天網島・河庄』、『双蝶々曲輪日記・引窓』、『土屋主税』、『藤十郎の恋』などの人気狂言は鴈治郎によって作られたものである。そして彼の芸は大阪京都だけでなく東京の観客にも認められ、関西歌舞伎=中村鴈治郎という現象が生まれる。

ほかの歌舞伎役者には、二代目實川延若十一代目片岡仁左衛門二代目中村梅玉三代目中村雀右衛門二代目尾上卯三郎三代目尾上多見蔵嵐巌笑四代目嵐璃寛二代目嵐璃?などが活躍した。いずれも一家をなす力を有してはいたが、如何せん人気度、知名度ともに鴈治郎に食われていた。それほど彼の影響力は巨大だった。

だが、興行会社松竹の鴈治郎中心の興行形態はさまざまな歪みを生んでいく。十一代目片岡仁左衛門、二代目實川延若といった有能な役者は冷遇され、東京に活躍の場を移していかざるを得なくなる。それに家の芸という意識の低い関西歌舞伎の風土は後継者作成に積極的でなく、鴈治郎一人舞台の状態が続く中、関係者は鴈治郎後については何ら対策を講じる事なく、1935年(昭和10年)の鴈治郎の死を迎える。
凋落の時代
戦前の概況千日前大阪歌舞伎座(1934年)絵はがきより

鴈治郎の死後は、二代目延若と、中村魁車三代目中村梅玉の三者が上方歌舞伎を牽引する。まだ、歌舞伎興行自体も人気があり、昭和に入って、最新の設備をほこる大阪歌舞伎座が千日前に作られるなど環境面が整備された。立女形に関しては関西のほうが充実していた。梅玉はしばしば上京しては『妹背山婦女庭訓・吉野川』の定高や『攝州合邦辻・合邦庵室』の玉手御前などの至芸を見せて東京の歌舞伎愛好者から高く評価されていたし、十二代目片岡仁左衛門が東京に移ったのも、東京の立女形不足を補強するためでもあった。「毛谷村」初代中村魁車のお園と二代目実川延若の六助

色気のある立役の延若、古風な立女形の梅玉、技巧派の魁車と、三者の芸は独特の個性があり初代鴈治郎とならぶほど質の高いものだった。脇も四代目市川市蔵初代市川箱登羅七代目嵐吉三郎初代市川筵女四代目浅尾奥山二代目中村霞仙ら芸達者がならび、そこに五代目我富、六代目蓑助、中村もしほ(のちの十七代目中村勘三郎)、二代目市川小太夫などの東京からの移籍組、そして、扇雀、長三郎、福助などの有望な若手が加わり、顔ぶれは充実していた。三代目阪東壽三郎による新派との合同公演などの新しい試みも行われたり、村田嘉久子梅村蓉子、などの新劇、映画女優の参加がさかんであった。劇場では京都で南座、大阪で中座・浪花座・大阪歌舞伎座角座が歌舞伎を上演。関西歌舞伎は、その内容面、施設面ともに問題はなかった。

だが、興行側も観客も初代中村鴈治郎の幻影を追い求め、延若に鴈治郎の当り役を勤めさせるなど的外れの興行がおこなわれ、役者の持ち味を活かせぬ弊害をもたらしていた。太平洋戦争後は、歌舞伎座などの劇場の閉鎖や芝居茶屋の廃業などのきびしい状況にもかかわらず、三者を中心に歌舞伎は関西の歌舞伎愛好者の人気を集め、大戦末期の空襲にも屈せず興行が行われた。
終戦後の混乱


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