上川郡(かみかわぐん)は、北海道(天塩国)上川総合振興局の郡。
人口8,501人、面積1,000.64km²、人口密度8.5人/km²。(2024年4月30日、住民基本台帳人口)
以下の3町を含む。 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記3町に士別市および名寄市の大部分(智恵文を除く)を加えた区域にあたる。 郡名は天塩川の上流部にあたることから命名。南に隣接する石狩国上川郡とは塩狩峠で境界を成している。 江戸時代の上川郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によって開かれていたテシホ場所に含まれた。江戸時代後期になると文化4年南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え、上川郡域は天領とされた。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり庄内藩が警固を行い、同6年の6藩分領以降は庄内藩領となっていた。 戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して上川郡が置かれた。
和寒町(わっさむちょう)
剣淵町(けんぶちちょう)
下川町(しもかわちょう)
郡域
歴史
郡発足までの沿革
郡発足以降の沿革北海道一・二級町村制施行時の天塩国上川郡の町村(15.士別村 16.上名寄村 17.剣淵村 18.多寄村 橙:士別市 黄:名寄市 青:区域が発足時と同じ町村および合併を経ていない町村 水色:分立して現存する町村 34.和寒村 35.下川村)
明治2年
8月15日(1869年9月20日) - 北海道で国郡里制が施行され、天塩国および上川郡が設置される。開拓使が管轄。
8月17日(1869年9月22日) - 水戸藩の管轄となる(北海道の分領支配)。
明治4年8月20日(1871年10月4日) - 再び開拓使の管轄となる。
明治5年
4月9日(1872年5月15日) - 全国一律に戸長・副戸長を設置(大区小区制)。
10月10日(1872年11月10日) - 4月に設置された区を大区と改称し、その下に旧来の町村をいくつかまとめて小区を設置(大区小区制)。
明治9年(1876年)9月 - 従来開拓使において随意定めた大小区画を廃し、新たに全道を30の大区に分ち、大区の下に166の小区を設けた。
明治9年の大区小区
第29大区
1小区
明治12年(1879年)7月23日 - 郡区町村編制法の北海道での施行により、行政区画としての上川郡が発足。
明治13年(1880年)3月 - 留萌郡外六郡役所(留萌天塩中川上川苫前増毛郡役所)の管轄となる。
明治14年(1881年)7月 - 増毛郡外六郡役所(増毛留萌天塩中川上川苫前郡役所)の管轄となる。
明治15年(1882年)2月8日 - 廃使置県により札幌県の管轄となる。
明治19年(1886年)1月26日 - 廃県置庁により北海道庁札幌本庁の管轄となる。
明治30年(1897年)
6月 - 剣淵村、士別村、多寄村、上名寄村が設置され、天塩国上川郡戸長役場が管轄。
11月5日 - 郡役所が廃止され、増毛支庁の管轄となる。
明治32年(1899年)5月20日 - 上川支庁の管轄となり、剣淵村外三ヶ村(士別村・多寄村・上名寄村)戸長役場を設置。
明治39年(1906年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、士別村、剣淵村(いずれも二級村、単独村制)が発足。(2村)
明治42年(1909年)4月1日 - 北海道二級町村制の施行により、多寄村、上名寄村(いずれも二級村、単独村制)が発足。(4村)
大正2年(1913年)4月1日 - 士別村の一部(上士別)が分立して上士別村(二級村)が発足。