上川島
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上川島
上川島の海岸
所在地 中国
所在海域南シナ海
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
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上川島(じょうせんとう[1])は、中華人民共和国広東省江門台山市の沖合にある島。フランシスコ・ザビエルが没した島として知られる。
名称

西洋人からは「聖ヨハネの島」(ポルトガル語: Ilha Sao Joao, 英語: St. John's Island あるいは St John Island)と呼ばれた。

「上川島」という名称自体がポルトガル語のサン・ジョアン(Sao Joao)から来ているという説もあるが、西洋人の到達以前に「上川洲」の名で呼ばれている[2]。このほかラテン文字表記では "Schangschwan", "Sancian", "Sanchao", "Chang-Chuang" などと記された。

末の光緒19年(1893年)に「上川島」と改められた[3][2]
地理

中国本土からは14kmほど離れており、面積は137.3平方キロメートル。川山群島(英語版、中国語版)の主島で、広東省最大の島である(これより大きな島としては東海島 (zh:?海?) があったが、陸続きとなった)。西隣に下川島がある。

行政上は台山市川島鎮の管轄である。人口は1.5万人。
歴史フランシスコ・デ・ゴヤ画『フランシスコ・ザビエルの死』。上川島で最期を迎えるザビエルを描く。

初の洪武年間には定住者がいたという[2][3]弘治12年(1499年)に川山群島は新会県の管轄となり「穿洲」と呼ばれ[3]、2つの主要な島が「上川洲」「下川洲」と呼ばれるようになった[3]

1513年に初めてポルトガル人が中国に到達した。上川島はポルトガル人がマカオ(澳門)に定住する以前、中国沿岸で最初期に拠点とした場所の一つである。ポルトガル人が最初に築いた貿易拠点のタマン(Tamao) について、上川島に比定する説がある[4]

1552年9月、イエズス会士のフランシスコ・ザビエル(のちに列聖)は上川島に到着し、広州に渡る船を待っていたが、同年12月3日に島で病没した。その墓は島の北部にある大脳山の西麓にある。

ポルトガル人は1540年代末から1560年にかけ、上川島からランパカウ (Lampacau) 、次いでマカオへと拠点を移した[5]。この時期については「ランパカウ(英語版、広東語版)」(浪白?、浪白澳、浪白竈とも。ランパカオ Lampacao とも)の位置なども含め諸説がある[5][6]。『台港澳大辞典』によれば、ポルトガル人は1553年に上川島を放棄したという[5]

清の嘉慶年間には、紅旗幇を率いた海賊の張保(張保仔)が、上川島の沙堤港を主要な基地とした。張保は瓊州海峡を扼し、東は香港から西は広州湾まで多くの島を支配したと言われる。張保が宝を埋めたという伝承地が上川島に十数か所ある[7]
経済

島の東海岸にある飛沙灘旅游区(?沙?旅游区)はビーチリゾートとして開発されている。

島の南部にある沙堤は、広東省三大漁港の一つとされる。
脚注[脚注の使い方]^ “上川島”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目(コトバンク所収. 2019-11-25)閲覧。
^ a b c “ ⇒台山上下川??介”. 珠海海?旅游网. 2019年11月25日閲覧。
^ a b c d “魅力海?-?数上下川?的美?精彩【??】”. 川?旅游网. 2019年11月25日閲覧。
^ 湯開建. “ ⇒中葡關係的起點: 上、下川島Tamao新考”. 澳門特別行政區政府文化局. 2019年11月25日閲覧。
^ a b c 施存龍. “ ⇒葡商集中澳門前的“家”浪白澳(島)考辨”. 澳門特別行政區政府文化局. 2019年11月25日閲覧。
^ 郭雁冰. “ ⇒浪白澳調?與考證”. 澳門特別行政區政府文化局. 2019年11月25日閲覧。


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