「上宮聖徳法王帝説」とは異なります。
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『上宮記』(じょうぐうき・かみつみやのふみ)は、7世紀頃(推古朝か)に成立したと推定される日本の歴史書。 『上宮記』は、7世紀頃(推古朝か)に成立したと推定される日本の歴史書である。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文
概要
編者は不詳。上・中・下の3巻から成るか。書名の「上宮」は厩戸皇子が幼少・青年期を過ごした宮であるが(現奈良県桜井市)、『平氏伝雑勘文』に「太子御作」としているのは仮託であろう。本書の性格についても、聖徳太子の伝記とする説、上宮王家に伝来した史書とする説などがあって一定しない。神代の記述も存在したらしいが、まとまった逸文は継体天皇・聖徳太子関連の系譜で占められる。
その系譜様式や用字法の検討から、本書の成立は藤原宮跡出土の木簡より古く、推古天皇の時代まで遡る可能性も指摘されている。 関根淳
成立について
西條勉は、『逸文上宮記』に「一云」として載せられている「継体天皇出自系譜」は、その用字法から推古朝ないし大化前代の遺文である可能性が強いとし、作成主体についても蘇我氏の関与を重視する見解を支持した。また、これらに関しては幾つかの異見もあるが、この系譜が用字の面で記紀以前の古態をとどめている点は否定しがたく、加えて、天皇号が用いられていないということも勘案すべきとし、『上宮記』を推古朝修史圏内で捉えておくのが基本であろうとした[2]。
黛弘道は、『上宮記』の文章は、記紀以後に述作されたというような新しいものでないことは、その用字法からして明瞭であり、用字法はどうしても時代の趨勢に拘束されるため、後から古めかして造るのは技術的にかなり難しく、用字法からいえば、継体天皇の世系は記紀編纂以前から『上宮記』やその原文によって判明していたと考えることができるとし、記紀が継体の系図を記さなかったのは、 天皇の5世孫という疎遠な皇親が皇統を継承した例はないから、5世代を克明に挙げる煩を避けたためであるとし、また、『日本書紀』に系図一巻が添えられた事実を忘れてはならず、継体天皇の世系は必ずこの系図の中に示されたに違いないのであり、『上宮記』はむしろその参考に供された資料とみるべきである、と主張した[3]。
井上光貞は『上宮記』は七世紀の宮廷での創作ではないかとしている。「701年(大宝元年)に律令法典が完成したが、継嗣令というその法典の一章には、「天皇の子の親王から第四世までは王というが、第五世からは皇族の待遇をうけない」とし、706年(慶雲3年)には第五世王も入ると改めた。この法令の作られたちょうどその頃に、古事記と日本書紀は完成している。古事記が継体天皇を応神の五世の孫とし、日本書紀が応神五世の孫の子としているのは、この知識が大きく働いていると思われるのである。」と指摘している。[4]
山尾幸久は『上宮記』逸文の原史料は、推古朝まで遡るのは難しく(記紀完成直前の)七世紀末か八世紀初めに書かれたと見ている。[5] 西條勉は、継体を応神の5世孫とする伝承は古く、大宝継嗣令に基づく潤色とみるよりも、かえって継嗣令の方こそが大王系譜からの規制を被っているとみなければならないとし、すでに記紀の形態をとっていたとは考えられないが、少なくとも原応神?武烈・手白香姫命の間を6世代とする系図はすでに固定されていて、それに合わせて継体の出自が造作されたとした[2]。
「一云」の系図について