上原浩治
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上原 浩治読売ジャイアンツ選手時代
(2018年 東京ドーム
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府寝屋川市
生年月日 (1975-04-03) 1975年4月3日(48歳)
身長
体重187 cm
87 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1998年 ドラフト1位(逆指名)
初出場NPB / 1999年4月4日
MLB / 2009年4月8日
最終出場NPB / 2018年10月17日
MLB / 2017年9月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


東海大学付属仰星高等学校

大阪体育大学

読売ジャイアンツ (1999 - 2008)

ボルチモア・オリオールズ (2009 - 2011)

テキサス・レンジャーズ (2011 - 2012)

ボストン・レッドソックス (2013 - 2016)

シカゴ・カブス (2017)

読売ジャイアンツ (2018 - 2019)

国際大会
代表チーム 日本
五輪2004年2008年
WBC2006年
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

オリンピック
男子 野球
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
2006
オリンピック
2004野球

上原 浩治
2021年8月
人物
職業野球解説者
野球評論家
タレント
YouTuber
公式サイト

koji-uehara.net(公式サイト)

上原浩治|所属アスリート - SPORTS BACKS OFFICIAL SITE

KOJI UEHARA (@TeamUehara) - Twitter

Koji Uehara (@koji19uehara) - Instagram

Koji Uehara(上原浩治) (19koji.uehara) - Facebook

YouTube
チャンネル

上原浩治の雑談魂

活動期間2020年 -
ジャンル野球
登録者数70.6万人
総再生回数2.4億回
事務所(MCN)スポーツバックス
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2020年

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-09-21-00002023年9月21日時点。
テンプレートを表示

上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身の元プロ野球選手投手、右投右打)。現在は野球解説者野球評論家タレントYouTuberとして活動している。
概要

メジャーリーガーで、2013年にはMLBで日本人初のリーグチャンピオンシップおよびワールドシリーズ胴上げ投手ともなった[1]。NPB時代に20世紀最後の沢村栄治賞受賞と20世紀最後の投手三冠王を達成している。最高勝率を3回獲得(セ・リーグ最多タイ記録)している。日米通算100勝100セーブ100ホールドを達成した唯一のアジア人選手。投手として、NPBでは4度のリーグ優勝、2度の日本シリーズ優勝、MLBでは4度の地区優勝、2度のリーグ優勝、1度のワールドシリーズ優勝に貢献。アテネオリンピック銅メダリスト。

マネジメントはスポーツバックス[2]

実兄は北川ヒューテック代表取締役社長の北川隆明[3]
経歴
プロ入り前

実父がコーチを務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた[4]寝屋川市立第十中学校では野球部がなかったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した[4]

高校は自転車で通えて野球が強いという理由から東海大学付属仰星高等学校に進学した[5]。高校時代は建山義紀ラグビー元日本代表の大畑大介とも同級生であり、3人は1年時に同じクラスであった[6]。1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める一方で、練習では打撃投手を務めることも多かった[7]。3年になって投手になるが建山義紀の控えでほとんど登板機会がなく[4][注釈 1]、同校も夏の大阪大会準々決勝で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった[4]。この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものであったが、浪人してもう一度受験することを決意。隣町の予備校KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした[4]。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。「野球ができなかった苦しさを思えば、打たれても野球ができるプロは辛くない。」と19歳当時の1年間を忘れないように巨人入団後及びMLB時代所属した4球団でも背番号は「19」を選択した[8]

この翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。1年時から阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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