上原敬二
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上原 敬二(うえはら けいじ、1889年2月5日 - 1981年10月24日[1])は、日本造園研究家。学位は、林学博士東京農業大学名誉教授

東京高等造園学校(現・東京農業大学地域環境科学部造園科学科)の創設者。日本の造園教育の創始者として知られる。また造園の技術者としても、東京帝国大学大学院在学時に本多静六等と明治神宮の造園などを設計。その他、横浜山手の西洋庭園をはじめ、築造した庭園は三百余になるといわれている。

上原の著書の多くは造園系学校・学科の学生の参考書として現在も多く活用されている。
経歴と人物.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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東京深川で材木業の家に生まれる。上原の先祖は丹波綾部が郷国で、北面の武士になり、祖父が京都鷹司家分身朽木近江守一族で代々藩主の祐筆を務めていたといい、上原本人も父から書の塾へ通わされていたという。父安平は本業の材木業の他に伏見宮家造林掛の肩書でときどき宮家の財源林である君津、鬼泪山の赤松林に出張し、マキ材伐出を監督していたという。母親間近くの旧家の出で、寺子屋師匠も手助けをしていたという。上原も十代のころから父親の仕事関係でたびたび宮家行事の際に出入りして、お手づだい仕事を命ぜられた。

1904年(明治36年)に旧制東京府立第三中学校(現・東京都立両国高等学校)入学。二級下に芥川龍之介、同級に久保田万太郎がおり、終戦前後のころの不遇時代久保田に小説家転向を相談したことがある。こうして三中から旧制第一高等学校を経て、1914年大正3年)東京帝国大学農学部林学科を卒業。卒業後は一生を学究生活に送ることを決意し、就職問題には無関心。この時代の林業界は全盛時代、卒業生は引く手あまた、えり好み自由、官公吏としては国有林、御料林、府県林務課、民間の林業会社、製材製紙会社は伝手を求めて卒業生を迎えるに汲々、そうした時期に就職もせず、教室に残るとは変りものといわれた。こうして同大大学院へ進学。森林美学造園学樹木学建築学等を専攻。

ここに現われたのが明治神宮境内林問題である。卒業期も近づいたので上原は正式に先生に研究室に残って研究生活に入りたき旨を申し述べその許しを請うたが、当時神宮境内設計について官制公布以前、農科大学教授連と連絡があったのか、上原が在学中に指導教授であった本多静六博士が?々上原を招き神宮境内の設計、樹林の問題などにつき協力、手助けを求め、時には庭師を同席させ、他の助手をも招き協議を行うこともあったとき、協力を拒んでいる。もとより協力を惜しむべきではなかったが、上原はこの時は神宮関係の役所役人として奉職するような気持はなかった。それに反し、恩師の本多は上原の卒業後はその部署に責任者として就職させる心算であったことがあとで判然する。本多は、研究はいつでもできる、こういう機会は二度とあるものではない、この際、神宮境内造成の部署に正式に責任者として就職するよう、つまり役人となるようにと口を酸くして勧めた。上原は役人がもともと嫌いであるのだが、こうまで口説かれては要望を入れないわけにはいかない、万事休すと思って渋々ながら承諾したという。

官制発布前であったので、取り敢えず内務省(造神宮使庁)嘱託として就任。本多は「君のいう樹木利用の趣旨に添う絶好の試験場である。専門の学問は机上論ではだめ、実地に応用し得るよい機会である。宜しく学説を実際に試みよ」と述べたというが、後日就任してからこの試験やら実験やらを行ったのが課長の気に入らず、幾度か論争することになる。上原は本多からの言説を楯として譲らず、大先輩に当たる課長もこれに負けず、試験場ではない点を強調して上原をやり込めたというが、こうした結果によって上原はのちに神社林の研究で林学博士を受章となる。

博士を受章した同年、造園学研究のため欧米留学し、後にアメリカ合衆国の大都市の公園事情を詳しく分析している。

1918年(大正7年)上原造園研究所 設立[1]1923年(大正12年)に起こった関東大震災後発足の帝都復興院に任用されるが、7ヶ月で辞職。

帝都復興事業のための造園技術者養成を目指し、震災の翌年に東京高等造園学校渋谷・常磐松の東京農業大学、当時は東京農学校のキャンパスの一角を借りて設立し、自ら校長となる。


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