上原敏
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上原 敏
上原敏(1930年代のブロマイドより)
基本情報
出生名松本 力治
生誕 (1908-08-26) 1908年8月26日
出身地 日本 秋田県北秋田郡大館町
死没 (1944-07-29) 1944年7月29日(35歳没)
学歴専修大学卒業
ジャンル歌謡曲
職業歌手
活動期間1936年 - 1942年
レーベルポリドールレコード
共同作業者藤田まさと

上原 敏(うえはら びん、本名:松本 力治(まつもと りきじ)、1908年〈明治41年〉8月26日 - 1944年〈昭和19年〉7月29日)は、秋田県出身の歌手

戦前に活躍した流行歌手で「妻恋道中」「裏町人生」などのヒット曲を持つが、第二次世界大戦で行方不明(のちに死亡認定)となった。最終学歴は専修大学卒業。
経歴
藤田との出会いは野球

1908年(明治41年)に秋田県北秋田郡大館町(現:秋田県大館市)の商家「ネリヤ」で生まれる。旧制秋田県立大館中学校在学中からヴァイオリンに夢中になり、音楽の素養を身につけた。スポーツは野球を得意とし、専修大学商学部に入学後も東都大学野球連盟に選手として出場している。ポジションは投手で、1933年(昭和8年)春と1934年(昭和9年)春の東京五大学リーグ戦優勝に貢献し[1]、4年生では主将を務めた。

大学卒業後の1936年(昭和11年)にわかもと製薬宣伝部へ入社し、普通のサラリーマンとして社会人になったが野球は社会人野球チームに所属して続け、ある日の試合でレコード会社のポリドール野球部と対戦した。その際に、上原の遠縁の親戚でポリドールの幹部だった浪曲作家の秩父重剛から作詞家の藤田まさとを紹介され、レコードの吹き込みを勧められる。当時のポリドールには東海林太郎新橋喜代三というスター歌手を抱えていたが、新たなスターの発掘にかなり注力していた時期でもあったからである。
ポスト東海林太郎

1936年(昭和11年)にテスト盤として「須坂小唄」など4曲をレコーディングし、さらに浅草〆香山中みゆきらと共演した「しゃんつく踊り」でポリドールからデビューした。芸名は、訳詩集「海潮音」の作者・上田敏に、当時の映画俳優・上原謙を捩った「上原敏」とした。前述のように「第2の東海林太郎」の育成に躍起だったポリドールは上原のデビューより前にタイヘイレコードから引き抜いた河崎一郎の宣伝に力を注いでいたが、河崎の人気が上昇しかけた矢先に河崎を巡って訴訟問題が起こり、「ポスト・東海林太郎」は自然に上原に注がれた。上原には義太夫好きだった父の影響を受けて邦楽の素養もあり、広沢虎造を意識した小節を利かせた歌い方は、正統派の東海林と違って大衆的なカラーが強かった。この時点で上原には「遠い湯の町」「恋の絵日傘」などのヒット曲は存在するものの、東海林の模倣と評されるなど伸び悩んでいた。

そんな上原に幸運が訪れる。1937年(昭和12年)に東海林が当時の子役・高峰秀子を養女に迎えようとした際にトラブルが起き、藤田と意見が対立した。一歩も引かない東海林に対して藤田は、東海林のために用意していた「妻恋道中」の吹き込みに上原を抜擢した。妻恋道中は発売されるや25万枚を超える大ヒットとなり、上原は流行歌手としての地位を確立した。
スター歌手に「愛馬の唄」宣伝用スチール(右は佐野周二、1938年)

上原はその後、立て続けに松竹映画の主題歌である「流転」、結城道子がソロでレコーディングする予定だった「裏町人生」と連続して大ヒット曲を出し、その素人臭さの中に柔らかさを持った上原の歌声が全国に流れた。この頃に秩父の義妹・澄子と結婚すると、それを祝うかのように発売された翌年の「鴛鴦道中」は、新人の青葉笙子とのデュエットで大ヒットとなった。上原の快進撃はまだ続き、前述の妻恋道中や「波止場気質」をはじめとしたヤクザもの(股旅もの)やマドロスものに、「上海だより」「南京だより」などのいわゆる“たより”もの、「流沙の護り」「聲なき凱旋」などの戦時歌謡、それ以外にも「徳利の別れ」「俺は船乗り」など、1937年(昭和12年)から1939年(昭和14年)にかけて東海林を追い越す勢いでヒット曲を量産した。このように異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していく上原には銀幕への出演依頼も増え、東宝映画ロッパ歌の都へ行く」「金語楼の大番頭」や、松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」「弥次喜多怪談道中」などにも特別出演している。中でも「ロッパ歌の都へ行く」には本職の流行歌手として出演し、「親恋道中」を歌う上原のステージを偲ぶことができる。同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博していた。
近づく戦争の足音

1938年(昭和13年)3月から1942年(昭和17年)まで、上原は中国大陸を戦地慰問で通算7度訪問し、数多くの将兵の前で歌った。

しかし青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては帰国直後からレコーディングするハードなスケジュールを消化していた上原は徐々に体調を崩すようになり、多数の薬を常用するようになっていった。そのために1941年(昭和16年)にヒットした「仏印だより」では声が荒れ、デビュー当時の柔らかな歌声は失われている。さらに第二次世界大戦が開戦すると、世間は勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となって上原が得意とした股旅歌謡は衰退し、さらに上原の歌い方そのものも時局に合わなくなって人気も凋落していった。

上原の性格は生真面目で、元々がサラリーマンだったこともあって流行歌手といっても質素な生活を続け、借家暮らしを通した上原であったが、いずれは歌手を廃業するつもりだったのか、千葉県牧場を経営することを検討していたと澄子が述懐している。


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